毛皮のマリー 寺山修司 美輪明宏

母と息子の歪な愛 寺山修司の戯曲『毛皮のマリー』

寺山修司と母・はつの親子関係を彷彿とさせる戯曲の抜粋と考察。「お互いに母子そっくり、幻滅しあい、にくみあいながら生活しているんですよ」といった親子の葛藤に併せて、「うそよ、臆病なのよ。世界を見るのがこわいのよ。いつもドアをそっとあけてそうのすきまからしか人生を覗き見できない自分が、みじめじゃない?」という美少女の台詞に代表される青年の自立も描いている。

母と息子の歪な愛

2011年のレビュー

世に「母親」について語った言葉は数あるけれど、一番納得したのが、子育てマンガ・エッセイの第一人者である伊藤 比呂美さんの

「母親は、自分が産んだものだから、子供の生殺与奪を好きにしていいと思っているフシがある」

というもの。(今、本が手元にないので、正確にはこういう言い回しではないけれど)

話の発端は、シンデレラや白雪姫のような、いわゆる名作童話。これらの童話には、しばしば「意地悪な継母」が登場し、美しい娘をいじめたり、殺そうとするが、原作では「実の母親」であり、でも子供にはあまりにショックが大きいので「継母」に置き換えられた……という話である。

背筋の寒い話ではあるけれど、ある意味、これは真実を突いているのではないだろうか。

「生殺与奪」とまではいかないけれど、母親は「自分が産んだ」ものだから、心のどこかで「子供は自分のモノ」という感覚がある。極端な言い方をすれば、ロールプレイングゲームと同じで、「私の思うように動いて欲しい。気に入らなければリセットすればいい。だって自分が作ったんだから」、そういう意識である。

だから、母親は、時に支配的だし、所有欲もある。それが高じれば、主従、あるいは近親相姦的な親子関係が形成される。

そして、子供も、どこかでそれを受け入れて、母親に従順であろうとしている部分がある。

シンデレラや白雪姫の「継母いじめ」にすんなり耳を傾けるのも、母性愛や親意識の秘められた歪さを、本能的に感じ取っているからではないだろうか。

そんな歪な母性愛──もしかしたら、母親の秘められた本性を如実に描いているかもしれない、寺山修司の代表作『毛皮のマリー』は、きわめて異質な親子物語だ。

男娼のマリーは、美少年の欣也を鳥かごで飼うようにして可愛がり、誰にも会わせず、部屋の外にも出さず、息子の人生を完全に支配している。

そして欣也も、「母親」のマリーに逆らうことなく、部屋の中に美しい蝶を放ち、それを追いかけることで世界を旅しているような気分になっている。

劇の途中、マリーの過去と欣也の出生の秘密が語られるが、マリーはまさに人生に復讐しようとしている母親。人生に復讐したいから、息子を支配し、本来の姿とは違うものに作りかえようとしている。

でも、マリーにとって、それは支配ではない。罪悪感もない。だって、自分が産み、育てたのだから。好きに生殺与奪できる権利があると心のどこかで思っている。母親の愛の暗い側面をデフォルメすれば、多分、こういう言葉になるのではないか。

あたしは赤ん坊をひきとって育てました。男の子だったけど、これからじっくり手間をかけて女にしちゃうの。ひどいクズだけど、心は純粋。まるで小鳥みたいにみずみずしい坊や。だから、それをあたしの手でこう作りかえて、いまにセックスの汚物を捨てる肉の屑籠にしてしまうつもりなんだ。

そんな歪な母親の愛に、息子の欣也もまったく気付いてないわけではない。「美少女」が彼の目の前に突然現れ、外の世界に誘おうとした時、彼の心は大きく揺れる。

だが、それを振り切るには、彼はあまりに深く「支配されてしまっている」。

なぜここから出ようとしないのか、という美少女の問いに、欣也が「ここが、好きだから」と答えると、

うそよ、臆病なのよ。世界を見るのがこわいのよ。いつもドアをそっとあけてそうのすきまからしか人生を覗き見できない自分が、みじめじゃない?

そうして、一度は、鳥かごのようなアパートから姿を消すが、「欣也さまはもう出て行っておしまいになりました。たぶん、もうお帰りになることは、ありませんでしょう」という下男の言葉に、マリーは答える。

出て行ったって? 出て行ったって帰ってくるのですよ。あの子はどこにいたって、たとえ地球の向こうの一番遠い星の上にいたって、あたしが呼びさえすれば必ず帰ってくるのですよ。あたしたちは母ひとり、子ひとりなんですからね。

そして、その通り、欣也はマリーの元に戻り、最後の総仕上げが始まる。

さあ、坊や、町でとってもいいお土産を買ってきてあげました。(とカツラをとりだして)これからおまえはとってもきれいな女の子になるんですよ。ほうら、よく似合う、あたしの思ったのとそっくりだ。さ、顔をあげて、お母さんの顔をよく見て(と言いながら、ゆっくりと化粧してやりはじめる。しだいに美少年が美少女に変わって行く……)
どうして泣いたりするの?
坊や。
おまえは今にこの世で一番きれいになるんですよ・・・。

この作品は、一見、奇抜な親子ギャグのようだけど、全編に母親の支配的な愛情と、結局は逆らえぬ息子との近親相姦的な結びつきがどしりと響いて、何ともいえない気分になる。

感動とか、哲学とか、あまたの言葉では言い表せないような、暗く、歪んだ読後感だ。

実際、作者の寺山自身も、実母の過大な期待と愛情に葛藤した息子の一人であり、「毛皮のマリー」は自身の心の膿をえぐり出すようにして書いたのではないか。
(詳しくは、[レビュー]寺山修司と生きて/田中未知を参考にどうぞ。

息子を寸分たがわず自分の中に取り込み、息子の人生をも生きようとする重い母親。

心の奥底では抵抗しながらも、それに呑み込まれて行く息子。

彼らはいったい親子なのか、一つの肉の塊なのか。

『毛皮のマリー』は決してクレイジーな男娼の母親ごっこではない。

母親なら誰もが経験する息子との一体感、そして支配欲(それを「教育」「しつけ」という言葉で表す母親が圧倒多数だけども)の原点を生々しくデフォルメした一つの童話である。

シンデレラや白雪姫が「嫉妬」の対象となり、母親の人生圏から追い立てられるのに対し、息子は支配され、母親の中に取り込まれることで、母の人生に対する復讐を完遂する。「私が、私の人生を生きられなかったように、お前も自分の人生を好きに生きてはならない」「もう私は自分の人生をやり直すわけにいかないから、代わりにお前の人生を生きさせおくれ」という復讐だ。

その復讐が成し遂げられた時、そこにいるのは人形のような息子と、心から満足する母親であり、それをその母親は「幸福」と呼ぶ。

『毛皮のマリー』は、「そして二人はいつまでも幸せに暮らしました」という、母と息子の生々しい童話なのだ。

舞台『毛皮のマリー』

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5つ星のうち 3.0 (3 件のカスタマーレビュー)

寺山修司が、美輪明宏のために書いた伝説的名作。寺山を知る美輪明宏でしか紡ぎえない 寺山幻想演劇×美輪ワールドの金字塔!!

※動画は削除されました

世の中には何ともすごい作品があるものだ。

脚本も一級なら、演じる人もまた一級。いや、一級どころか、他とは比べようがない。

私も二度ほど美輪さんの舞台を見たことがあるけれど(エディット・ピアフの生涯を描いた『愛の賛歌』と『卒塔婆小町』&『葵の上』)、この『毛皮のマリー』も圧倒的な演技力と存在感で、ただただ引き込まれるばかりだった。

感想を一言で言えば『醜悪』。

ひどい舞台、という意味ではなく、深層心理までえぐるようなオチということだ。

これは男娼のマリーと、鳥かごの雛のように隔離して育てられる欣也との葛藤の物語ではあるけれど、いやいや、舞台の終末では、完全に身も心も結ばれています。真っ白な衣装に身を包み、マリーと欣也が手を取り合って光の中を歩んで行く場面は、母子でもなく、神と子でもない、完全に一体化した魂と肉体──他から入りこむ隙もない、これ以上ないほどに固く結ばれた一個の存在と化している。

これが実母との関係に苦しんだ寺山修司の最終的な回答なのか、と思うと、本能的にぞーっと立ちこめるものがある。

なんといっても、私は嫁の立場から見てしまうので、これはもう発狂もののオチとしか言いようがない。

しかも、DVDのエンド・クレジットに、寺山の元妻、九條今日子さんの名前を見た時には、我が事のように胸が痛む。この葛藤劇のオチを、妻であり、実際に実母との三角関係(?)に苦しんだ九條さんは、どんな思いで見つめてらっしゃったのだろう、と。

母の立場からすれば、『毛皮のマリー』はまさに理想的な愛の物語だ。

愛する息子を誰にも渡さず、触らせず、永遠に自分の手の中に置いて、一体化してしまう。

不愉快な嫁に息子を横取りされて、モヤモヤとしてる姑から見れば、腹の底から同調したくなるような話だろう。

それぐらい、この物語のオチは、歪で、醜悪で、気味が悪い。

私も母親だけど、ここまで息子を我が物に、一体化しようなどと思わないからね。

ある意味、寺山修司は「男」だから、母を感じることはあっても、決して母そのものになることはないから──だから「書けた」と言えるのかも知れない。

この書き手が「女」だったら、とてもこんな結末にはできなかっただろう。

そう考えると、「毛皮のマリー」に登場するのが全て「男」──「美少女」でさえ女装した俳優が演じる──のは、いたって自然で正しい演出だと思う。

ここに一人でも「女」、「本物の母親」が存在すれば、あまりの生々しさに舞台が壊れる。

それぐらい反自然、現実にはあり得ない、あってはならない物語ということだ。

もちろん、最終場面のいくつかのセリフは美輪明宏が付け足したもので、「寺山修司にはとても書けなかった」生々しさがいっそう色濃く前面に押し出されている。

ゆえに、この作品は、半分寺山のもので、残りの半分は美輪が暗部から引きずり出して完成させた、と言えなくないのだが、それにしても、これが寺山の本心なのか、あるいは、生前に母に優しくしきれなかった放蕩息子の劇中の償いなのか、寺山の生身の人生を知れば知るほど、見る側が闇に落ちて行く、そんな破壊力をもった物語であることには間違いない。

『毛皮のマリー』は、動物の本能を逆なでする劇薬だ。

母の盲愛とはかくも醜悪なものか、と、つくづく考えさせられる作品である。

☆追記☆

上記に補足します。(誤解の多い描き方なので)

美輪明宏・演出の舞台『毛皮のマリー』は、寺山修司の戯曲とは、若干ラストが異なります。

寺山修司の戯曲は、「これからあなたは世界で一番きれいな女の子になるんですよ」マリーが欣也に女の子の服を着せるところで終わっていますが、美輪演出は、女の子のドレスを着せられ、放心したように立ちすくむ欣也の膝元にマリーが取りすがり「母さんを許しておくれ」と号泣、その後、わらべ唄をバックに、母子ふたりが歩み寄ることも離れることも出来ず、少し距離を置いて座り込んで幕がおります。私が上記で書いている「母子の完全な一体化」というのは、まさにフィナーレの演出であり、そこでは、憎み合いながらも離れられない母子が手を取り合い、ゆっくりと光の中を歩んで行くんです。

いわば、「母子の完全な一体化」──別の言い方をすれば、互いを許し合い、究極の愛に辿り着いた母子を演出したのは美輪明宏であって、寺山修司の戯曲はそこまで表現してないんですね。

そう考えると、当事者である寺山修司と、あくまで第三者として作品に介在している美輪明宏との温度差(どちらが優れているとかの話ではなく)が感じられて面白いし、寺山にはとうてい結論づけられなかったものを美輪が美しく完結させた、とも言える。様々な解釈が成り立つ、非常に面白い作品です。

もっとも、寺山さんが、この美しきフィナーレをどう捉えたかは分かりませんけども、憎み合いつつも離れられない母のことを、互いに許し、純粋な愛に立ち返る……という理想があったのは確かじゃないでしょうか。ただ、それを、はっきりと、言葉にして語ることは出来なかったけれど。

まあ、それにしても、この舞台を見てると、「あ、美輪明宏って、ホントに男だったんだ」と思う。だって女形を売りにしているあの方が、上半身裸、常に、片方の乳首を露出して、舞台に立たれているんですから。ヘタすればイメージぶちこわし、気持ち悪い、って思われるだけでしょう?

でも、マリーを見ていると、その男の乳首がどんどん丸みを帯びて、母のふくよかな乳房に見えてくる。

男娼が「母」を自称することに何の不自然さも感じなくなる。

それぐらいすごい演技力です。

機会があれば、ぜひご覧になってください。

 戯曲 毛皮のマリー・血は立ったまま眠っている (角川文庫) (文庫)
 著者  寺山 修司
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 5つ星のうち 3.0 (2 件のカスタマーレビュー)

美貌の男娼・毛皮のマリ-。美少年・欣也は、外の世界を知らず、マリーの意のままに育った息子。マリーと欣也の禁断の親子愛を描いた表題作ほか、初期の傑作5作を集めた戯曲集。

寺山修司の原作はこちら。寺山修司らしい、ウイットに富んだ台詞が随所に散りばめられ、台本だけでも十分に楽しめます。

『母さんの学校は刑務所だった。古臭いコンクリート建ての学校で、同級生はみな人殺しだの、すりだの、強盗ばっかり! でも、母さんは刑務所に、英雄だの冒険だのをさがしに行ったんじゃない、まじめな勉強しに行ったんです……。』

『教育やしつけってのは、無駄なものにきまっているのですよ。』

『欣也は決して、外に出さないようにしてね。今の世の中は、あの子には刺激がつよすぎますからね』

『あたしをたたえておくれ。美しいことばで、じっくりとあたしのこの肌にみがきをかけておくれ』

世間はあたしのことを自然じゃないって仰るようね。作りもので、神様の意志にさからっているって。でも、そう言う人に限って、庭に花の種子をまいたりすることは平気なんだ。神様とはまるで無関係の、一袋20円の種子なんぞをまきちらし、それが自然を冒涜してるなどとはツユほども思わない。いいえ、どうせ、人生には自然のままでいいものなんて一つもありゃしないんだ

毛皮のマリー(親子関係の考察として)in 2017年

2017/4/28 作成

戯曲『毛皮のマリー』は哀しい作品だ。何が哀しいって、少女人形にされた美少年・欣也の運命ではなく、こういう作品を書かずにいられなかった寺山修司の胸の内が――である。

実は、この作品には二通りのエンディングがある。寺山修司のオリジナルの脚本と、二〇〇一年四月にパルコ劇場で上演された、美輪明宏・演出の舞台だ(DVDに収録)。

寺山修司のオリジナル(角川文庫に収録)では、家に帰ってきた欣也にマリーが化粧をほどこしながら、「あなたは今にこの世でいちばんきれいになるんですよ」で幕を閉じるが、美輪明宏の舞台では、少女人形に仕立てた欣也の足下にすがり、マリーが「許しておくれ」と号泣する場面が追加されている。そして、自責に打ちひしがれるマリーと放心したような欣也が距離を置いて座り込み、いったん、そこで幕が下りるが、次に幕が上がった時には、二人は愛し合う母子のようにソファに寄り添い、カーテンコールでは、天使のように白い装束を身に付けた二人が、仲よく手を取って天に召されるような演出が取り入れられているのである。

私もどういう経緯でエンディングが変えられたのかは知らないし、寺山修司も知っているのかどうかは分からないが、この演出があるか否かで作品のイメージは全く異なる。オリジナルの脚本では、マリーははなはだ醜怪なエゴイストでしかないが、美輪版には母親の葛藤が色濃く描かれ、現実の母子関係を彷彿とさせる内容に仕上がっている。果たして、それが寺山修司の本意であるのか、私には知りようもないけども、もし、この演出が死後に書き加えられたものであると仮定するなら、寺山修司は非常に複雑な気持ちを抱いたのではないかと推察する。

だとしても、本作に描かれた母子関係は一つの真実を言い当てているし、寺山修司もよく自分の内面を覗き見て、これらの台詞に置き換えられたものだと感嘆する。ただ親に対する恨み辛みだけを並べるだけの人生ならば、このような作品は書けないし、被害者然とするなら、欣也は颯爽と家を出て、二度とマリーの元には帰らなかっただろう。

何度も何度も脱出を試みて、その度に、自分を責め、結局は母の手に絡め取られてしまう。その葛藤こそが子供の成長の本質であり、単純に「自立こそ美徳」と錦の御旗を掲げるならば、寺山修司はロボットアニメの台本でも書いていただろう。

本作では、『男娼』という属性を用いて、母親を得体の知れない怪物のようにデフォルメしているが、実際、人に尋ねられても、どうにも喩えようのない人物だったのだろうと想像する。普通、「あなたのお母さんって、どんな人」と訊かれたら、「ドジで、ちょっと太ってるけど、優しいよ」と難なく答えられるだろう。だが、寺山修司にとっては、愛したくても愛せない、人生の重石であり、恥であり、悲痛であり、一方で子供らしい愛念の対象でもある、複雑怪奇な存在だったに違いない。

欣也が家を出て行くと、美輪版では、背中に鬼の顔が描かれた打ち掛けを羽織り、おそらくは我が子の成長を願って買い与えたであろう鯉のぼりの棹をドンと構えてマリーが一喝する。
「欣也、キ・ン・ヤ、き~んや、きんや? ……欣也! 帰ってらっしゃい!!」
あれは何度観ても「修司! 帰ってらっしゃい!!」に聞こえてしまう。
そして、寺山修司も、どれほど遠くに逃げようと、言葉で幾度となく殺そうと、終生、その言葉が耳について離れなかったにちがいない。呪いと哀願の潮騒のように。
最後に母子が寄り添う演出が、寺山修司の死後、付け加えられたものであるとするなら、母子をよく知る人たちの手で『一つの願い(周りにとっても切ない現実であっただろうから)』が具現化されたとも言えるだろう。
いずれにせよ、ここに描かれているのは母子の葛藤であると同時に、それを乗り越えようとした一人の人間の魂の遍歴でもある。
マリーの奇怪な言葉から響いてくるのは、我が親を怜悧な目で見つめ、戯曲に織り上げようとする作家の本能と、今も子供のようにすすり泣くやさしい心情なのだ。

マリー 欣也はどうしてる?
下男  応接間ですよ、例の蝶を追っております。
マリー まだ捕まえないの、あのグズ。
下男  こんどのは、すばしっこいやつでして……シャンデリヤのかげにとまったり 大航海全書のページのあいだにかくれたり、坊ちゃまも音をあげていらっしゃるようです。
マリー いい運動になるんですよ、手をかしてやったりしてはいけませんよ。これは、一人息子の母としてのしつけなんですよ。

毒親の大きな特徴は、子供を厭悪する気持ちと、親らしい情愛と責任感が同居している点だ。特に母親の場合、子の幸不幸に多大なプレッシャーを背負っているせいか、子供が自分の評価表であり、自罰的、もしくは高圧的になりやすい。
私も覚えがあるが、ある日、突然、我が子が苦手になる瞬間がある。アーといっても、キィといっても気に障り、同じ事をしても上の子は平気なのに、下の子には苛々するといった具合である。その心理はどこから来るのか、自分でも分からない。ただもう、イライラ、カッカと過ごすうち、霧が晴れるように解消し、いったいあれは何だったのかと不思議に思うほどだ。

ずっと以前、ある方の育児エッセーでこんな一文を目にしたことがある。
《母親は、自分が産んだのだから子供の生殺与奪は自由にしていいと無意識に思い込んでいる》
※ 漫画家の田島みるくか、エッセイストの伊藤比呂美か、どちらか。本が手元にない為、確認できず。

良識ある育児家なら「けしからん」と眉をひそめるかもしれないが、実際、そうした傾向は往々にしてある。数ヶ月、腹に宿しただけに、今でも我が身の一部のような感覚がある。子供も独りで歩き、独りで考えはするけれど、手術で分離したオデキみたいなもので、根っこは常時母親と繋がっている。ゆえに、オデキに薬を塗ったり、ヤスリで爪を擦るような感覚で、子供に「ああしなさい、こうしなさい」が簡単に言えてしまう。元々、自分の一部なのだから、切ろうが、擦ろうが、私の勝手デショ。母親が子供をぼりぼり頭から食べてしまうのも、決して戯画ではなく、我が身から切り離したオデキを再び自分の腹の中に収めるに過ぎない。そんな風に、理性や常識から超越した感覚があるから、いざとなれば火事場のバカ力みたいな剛胆を発揮するし、子供をかばって車に轢かれたりもする。いわば母性愛は獣と菩薩の表裏一体。その本質は、突き詰めれば、自己保存に根ざしたものではないかと思うことしきりだ。
そして、それがエスカレートすると、マリーのように「我こそ世界の教典」みたいな母親になる。子供の能力や気質などお構いなしに、自分が絶対と信じて疑わなくなる。「安全のため」「将来のため」、なんとでも理由を付けて、従わせようとするだろう。

本作では、欣也は蝶の飛び交う部屋に閉じ込められ、外に出て行くことは絶対に禁じられている。だが、決して舞台演出ではなく、精神的に「母親の部屋」に閉じ込められた子供は少なくないものだ。お菓子を買うのも、漫画を読むのも、進学も、就職も、お嫁さん探しさえも、母親の顔色を窺いながら、びくびく生きている子供たちだ。彼らは心の底では違和感を覚えながらも、強く否定するには至らず、反駁よりは服従の人生を選ぶようになる。母親を怒らせたら自分の居場所を失うと本気で恐れているからだ。一方、彼らは思いやりもあり、母親を拒絶したら可哀想だとも考えている。そして、毒親は、彼らのそうした『やさしさ』に乗っかって、ますます理不尽な要求をするようになるのだ。
だからといって、マリーが冷血な専制君主かといえば決してそうではなく、子供を両手で包み込むような優しさも持ち合わせている。これが心理的な罠であり、母親の本能の不可解なところなのだ。

もし、このような心理におかれた子供が『毛皮のマリー』を観たら、一度は脱出しながら、ぼろぼろになって帰ってくる欣也の姿に落胆するかもしれない。なんだ、寺山修司は負けたんじゃないか。結局、母親の元に帰ってきた。
(やはり親の影響下から抜けるのは不可能だと)。
だが、もう一段、高い所に立って考えてみよう。
もし寺山修司が親の心理戦に絡めとられ、今も足のすくんだ子供であるなら、こんな作品は絶対に書けない。どこかで抜けだし、自我を確立する術を知ったから、自身と母親を客観的に見つめ、戯曲に表すことができるのだ。
本作を観ていると、どうしてもマリーの突飛なキャラクターに目を奪われるが、これほど母親というものを観察した作品もない。
そして、これまた不可思議ではあるけれど、屈折した母親の一番の理解者は、息子である寺山修司自身なのである。

美少年 そうだ。ほんとのお母さんを探し出して、それも標本にしてしまわなきゃ。

高校生の時、非常に感銘を受けた本の一つに河合隼雄の『家族関係を考える(講談社現代新書)』がある。その頃、私は心理学に夢中になって、多湖輝の『読心術』を皮切りに、『深層心理学入門』だの『男と女の心理学』だの読み耽っていた。一見、人間は不可解なものに思えるが、その言動も、仕草も、かなりの部分を理屈で読み解けることに強烈に引き付けられたからだ。その延長で手に取った河合隼雄の著書は、「ツッパリ」「不良」「校内暴力」といった言葉に表されるような当時の家族問題を心理学的に考察したもので、『三年B組金八先生』や『積み木くずし』のような情に訴えるドラマとは全く異なっていた。親を殴る息子の心理も、家出を繰り返す娘の心理も、そうした不良少年少女を生み出す親の心理も、非常にロジカルに説明され、それまでもやもやとした疑念に光が差すような思いがした。彼らは突然変異的なものでもなければ、人間として強悪を極めたわけでもない。問題の根はどこの家庭にも大なり小なり潜んでおり、日常の些細な不満や誤解の積み重ねで、金属バットで親を撲殺するに至ったのだということが心底から理解できたのである。

河合隼雄いわく、

「ここに母なるもの」という表現をしたが、われわれ人間の心の奥底には「母なるもの」というべき存在の元型が潜んでいるように思われる。《中略》
たとえば、子供の心の中で、この元型がはたらくとき、子どもは絶対的に自分を包み込んでくれる母なるものの存在を期待する。しかし、現実の母は人間であるかぎり――どんなにいい母であろうと――子どもの絶対的な期待を満足させることはできない。そのとき、子どもは「ひょっとすると、僕の本当のお母さんはどこかに居るのではないか」と思う。こんなふうに思いはじめると、他の兄弟に比して自分だけはあまり可愛がられてないように思えてきたりするものである。自分は「貰い子」ではないのか。おのような疑問を抱かない子は、実は非常に少ないのではないか、と筆者は思っている。(47ページ)

欣也は、マリーと刺青の男(水夫)の話を立ち聞きし、こんなやり取りを耳にしてしまう。

刺青の男 わかった! さっきドアの外でうたっていた子は、あれはあんたの子なんだ。
マリー あたしの子?

マリー、とてつもなく長いキセルに火を付ける。そして、ゆっくりと瞑想にふけるように喫みはじめる。

刺青の男 そう、あんたの子なんだ。あんたはそのかつ子という女を強姦して、妊娠させた。そして産んだ子をひきとった。母親への憎悪をうえつけるために、あの子のドアに外から板を打ちつけて、監禁同様――仇討ちしてるって訳なんだ。
マリー ……
刺青の男 つまり、あんたはあの子の父親なんだ。

その後、マリーは「うそですよ。あの子はあかの他人ですよ」と言い返し、その後、「歴史はみんあウソ、去ってゆくものはみんなウソ、あした来る鬼だけが、ホント!」という名台詞に繋がっていくわけだが、ウソでもホントでも、庇護者であるマリーに「それをあたしの手でこう作りかえていまにセックスの汚物を捨てる肉の屑籠にしてしまうつもりなんだ」と言われた日には、欣也でなくても心の糸が切れてしまうだろう。
そこに欣也を誘惑する美少女が乱入し、外の世界と快楽を見せようとするが、「怖いもんか!」「(お母さんに)叱られる」「ほんとは何も見たくなんかないんだ」と激しい葛藤を繰り返した後、ついには美少女を絞め殺してしまう。そして、自分の心のスクラップでもある蝶の標本をばらまいて、上記の台詞を口にする。
少年は生きた蝶を針で刺しながら、母親への不満や疑問、自身の欲望などを殺してきたのだろう。

だが、ここで言われる「ほんとうのお母さん」は、河合隼雄の言う『理想のお母さん』とは別に、自分を生み出した不幸の元凶、この怒り憎しみの源でもあるような気がする。その源を捉まえて、永遠に殺してしまう。そうすれば、もう二度と理想の母親を追い求めて現実に失望することもないし、果てしない葛藤に苦しむこともない。常に心の重石であり、最も受け入れがたい存在である『母親』そのものを葬り去ることで、自由を得られる……と考えたのではないかと。

そして、欣也はマリーがの予言通り、「出て行ったって帰ってくるのですよ。あの子はどこにいたって、たとえ地球の向こうの一番遠い星の上にいたって、あたしが叫びさえすれば必ず帰ってくるのですよ。あたしたちは、母ひとり子ひとりなんですからね」――抜け殻のような状態で帰ってくる。笑いもしなければ、怒りもしない、愛玩人形となって。

そんな欣也に女の子の服を着せ、化粧をほどこし、「ああ、やっと自分の思う通りになった」と悦に入っても、そこにもはや欣也という人間は存在しない。 あんたが息子と思っているのは、本当の僕ではなく、蝉の皮か、紙人形みたいなものさ――という寺山修司の痛烈なしっぺ返しとみることもできるだろう。

そして、そうだと気付いても、母親は信じることをやめない。魂の抜けた息子の模造品でも、自分の手の中におれば、それで満足する。そんな愚かさを淡々と描いたのがオリジナルの脚本で、その後に、母の悔恨と一つの願いを付け加えたのが美輪明宏の舞台だ。
果たして寺山修司があらゆる葛藤を突き抜け、最後には緩しの気持ちにまで至ったかどうかは分からない。だが、愛と憎しみを秤にかけたら、愛そうと努力する方に傾く人だっただろう。
『毛皮のマリー』に漂うもの悲しさは、愛そうとしても愛せない子供の切なさと、愛を求めても愛を得られない母の淋しさに感じる。

マリー お互いに母子そっくり、幻滅しあい、にくみあいながら生活しているんですよ。

こじれた親子関係はこの一言に集約される。
ほぐす方法は、家出だけ。
物理的にも精神的にも離れた方が上手くいく親子関係もある。

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寺山修司の文学・演劇・映画を全力で支えた田中未知が24年の沈黙を破って語りはじめる寺山修司の核心

寺山さん、女性にモテたでしょうねえ。。
文章読んでるだけで「萌え♥」るんだもの、実際にお会いしたら……
「自分が愛する人間を純粋に愛する人々のことなら、私は愛せる。愛する人間をめぐってライバル意識をむきだしにすることのほうが、私には理解できない。」
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海洋小説『曙光』MORGENROOD

ニムロディウムという架空の金属元素を中心に、鉱業、海底鉱物資源、深海調査、海洋情報ネットワーク、建築&デザインなどをテーマに描く人間ドラマ。水深3000メートルに眠るニムロディウムの採掘は世界を変えるのか。生の哲学を中心に海洋社会に生きる人々の願いと攻防を描きます。Google Driveにて無料サンプルPDFも配布中。

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