ミケランジェロ ピエタ

この世は辛い事ばかりだから、私なら最初から産まないわ ~ミケランジェロの『ピエタ』より~

若き日の回想。

お堅いクリスチャンで、美術好きなハワードはフローレスを連れて郊外の美術館を訪れる。

永遠に、この春の日が続けばいいのに……
この光の回廊をどこまでも彼女と歩いて行けたらいいのに……
そう願いながら、ふと彼女の方を見ると、彼女は急に立ち止まり、ある一点に釘付けになった。

彼女の視線の先にあるのは一つの模刻像――ミケランジェロの傑作『ピエタ』だ。
春の木陰の中にひっそり佇み、得も言われぬ哀しみをたたえている。

彼が声をかける間もなく、彼女は像に向かってひた歩き、彼もその後を追った。

伊語で「敬虔な哀悼」を意味する『ピエタ』は、ミケランジェロの名声を決定づけた『ダビデ像』に並ぶ傑作だ。磔刑に処されたイエスの亡骸を抱く聖母マリアの姿は、我が子を喪った深い悲しみと、己が定めに従う意思の強さを感じさせ、見る者の心を引き付けずにいない。無限の霊感に突き動かされ、ミケランジェロが大理石の中から掘り出したのは、究極の母なる姿だった。

フローレスはしばし無言でピエタを見つめていたが、
「このマリア様は、愛に高められた女性の究極の姿だね」
と彼が言うと、
「あなたは男だから、この哀しみが分からないのよ」
フローレスは醒めた声で答えた。
「自分の血と肉を分けて生命を生み出す事が無いから、ただ美しいとしか感じないんだわ」
彼が言葉に詰まると、フローレスは像を見上げたまま、
「たとえ天から偉大な使命を授かって生まれてきたとしても、我が子は我が子よ。自分の血と肉を分けた息子に変わりはないわ。それが人類の罪をあがなう為に酷い目に遭い、自分よりも先に死んでゆくのよ。あなたが親なら、そんな運命に耐えられる?」
とたたみかけるように言葉を続けた。
「何てことかしらね。イエスは人類の罪をあがなう為に命をかけたのに、人はいまだに愚かで、地上には悪がはびこっている。いったい、この悲劇に救いはあるのかしら? それでもこの世に生きる価値があるとでも? こんな世の中、生まれてきても辛い事ばかりだから、私なら最初なら産まないわ。たとえ天から偉大な使命を授かったとしても、私なら絶対に産んだりしない」
「……フローレス……」
「あなただって、一度や二度は死にたいと思ったことがあるでしょう? あまりの辛さに、この世から逃げようと考えたことが数え切れないほどあるはずよ。もし、あなたの子どもが、この現実に耐えられなくて、生を呪うようになっても、それでもあなたは子どもを産んでよかったと心から祝福できる? どんなに愛しても、その子の不幸まで肩代わりすることはできないのよ。だったら、最初から産まないことが本当の愛の証だと思わない?」

彼が黙っていると、フローレスは微苦笑を浮かべ、
「あなたの神様も、この問題までは答えてくれないのね」
と彼の横顔を覗き込んだ。
「私、あなたが憎くて言ってるわけじゃないのよ。ただ、あなたがあまりにお目出度いから、つい言いたくなるの」
「僕がお目出度い?」
「ええ、そう、あなたったら、いまだにサンタクロースを信じて、クリスマスの夜に靴下をぶら下げる子どもみたいなんですもの。それがあなたの良い所でもあるし、皆と合わない所でもある。サンタクロースを信じない人間には、あなたの信心はとても滑稽よ」
「クリスマスの夜に靴下をぶら下げるのは滑稽かい?」
「滑稽よ。ありもしないサンタクロースがプレゼントを届けてくれると本気で信じているんだもの。それとも、あなたには、あなたの眠っている間に、あなたの望むものを何でも靴下に入れてくれる父親があるのかしらね」
「――どうせ僕は甘やかされてるよ。僕も自覚はしてる。なんだかんだで、お父さんの力を当てにしているのも本当だ。君の言うように、世の中のことなど何も知らずに育って、きれい事だけ信じて生きているかもしれない。だけどね、フローレス。世の中の人が、みな口を揃えて、サンタクロースなどいやしない、奇跡なんて馬鹿馬鹿しいと言い出したら、僕たちはいったい何処に救いを求めればいいんだ? それとも、君は救いなど必要としないほど強い人間なのか?」
「”救い”なんて! 在るのは自分自身だけじゃない。生きているのも”自分”なら、考えるのも”自分”でしょう。天を仰いで奇跡を待つなんて、意思のある人間のすることじゃないわ」
「君は僕のお父さんと同じことを言うんだね。人が生きるのに救いも導きも必要ない、自分の頭で考えればいい、と。でも、それを原罪というんだよ。僕のお父さんも、誰の忠告も聞き入れず、自分の頭で考えた結果がアルバトロス事件だ。君だって、自分の頭で考えることが、いつもいつも正しいわけじゃないだろう。もし、君が誤った時、誰がそれを正してくれるんだ?」
「……」
「君はサンタクロースの子ども騙しみたいに揶揄するけれど、神様は違うよ。あえて言うなら、僕は絶対普遍の真理を重んじているんだ。その時々に応じて変わる価値観ほど当てにならないものはないから。――僕には、君がどんな不幸に生まれ育ち、心に深い傷を負ってきたかは分からない。でも、これだけは言える。過去がどうであれ、未来は君の気持ち次第ということが。人生はまだ開かぬ薔薇のつぼみ、というだろう。君の人生だって、これから素晴らしいことがたくさんあるかもしれない。だから全てを否定しないで、生き続けて欲しい」

彼女の水色の瞳が揺らぐと、彼は彼女の帽子のつばを直し、
「いつかまた素敵なことがたくさんあるよ。君が望むなら、神様は何だって叶えて下さる」
「また夢みたいなことを言うのね」
「夢じゃないさ。君はこんなに綺麗だし、今に世界中の大富豪が膝をついてプロポーズするよ。次の年には、君に似た可愛い女の子が生まれて、家の中を悦びでいっぱいに満たしてくれる」
「子どもは産まないって、言ってるじゃないの」
「それは世界的な損失だ」
「どうして」
「君の娘は世界一の美人女優として名を馳せるからさ」
「女優なんて興味ないわ。どうせなら画家がいい。それもとびきり前衛的で、何にもカテゴライズできない、斬新な作風がいいわ」
「君自身は本気で画家を目指す気はないのかい? 画家のアトリエに好奇心で出入りして、暇つぶしにデッサンするだけで、本当に満足なのか」
「だって、私には描きたいテーマがないからよ」
「テーマ?」
「そうよ。どんな創作家にも生涯を貫くテーマがあるわ。愛、風刺、耽美、怒り、、、みな、テーマを追う中で、素晴らしい作品を創り上げていくの。そして、そのテーマは、自分で見出すものだと思ってる。だけど、真に偉大なものを見ていると、その人たちは生涯のテーマを天から授かったのではないかという気がしてならないの。そして、私にはテーマがない。手先だけで描いても、何の説得力もないと思わない?」
「それもまた見つかるよ。君が生き続けさえすれば。『求めよ、さらば与えられん』さ。神様は心から深く探求する者を決して見捨てたりなさらない」

引用:Father’s Days

Michelangelo's Pietà, St Peter's Basilica (1498–99).jpg
By Juan M Romero投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

初稿:1998年12月13日

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