磯海岸 海

42. 庶民の良心が社会を変える ~海洋情報行政とデータ共有の可能性

庶民の良心とサイレントマジョリティ

世間には『サイレント・マジョリティ』と呼ばれる人々がいます。
ネットでも、現実社会でも、大きな声で主張するわけではないけれど、社会の諸問題を興味深く見つめ、倫理や条理を重んじて生きている層です。
声に出さないからといって、何も考えてないわけでもなければ、何の関心もないわけではありません。
ただ、周囲の目や、慎みや、処世から、いちいち声を上げないだけで、本当は誰よりも社会の本質を理解していたりします。

リズは大きな勢力に翻弄されることを恐れますが、ヴァルターは大衆の良心を信じています。いざとなれば、”声なき人々”が行動することを知っているからです。

しかし、大衆の心を動かし、行動に結実するには、今世の中で起きていることを、広く、正しく、知らしめる必要があります。
無関心から理解や共感は生まれないからです。

ここで語られる情報共有ネットワークは、インターネット・サービスのように、漫然と情報を公開する仕組みではありません。
海洋行政や海洋科学や海洋産業に携わる人々が、「安全」「共栄」「振興」といった一つの目的をもって、公益に役立つ情報を共有するサービスです。
マナーや法律のように、ある物事について「誰でも知っている」ということは、社会の基盤を強固にする上で不可欠でです。
誰かは知っているけど、もう一方は知らないという情報の分断は、どれほど優れた知的基盤を有していても、機能してないのと同じです。

このパートは海洋小説『曙光』の抜粋です。

詳しくは作品概要とタイトル一覧をご参照下さい。

冒頭部の無料サンプルはGoogle Drive からDLできます。

【あらすじ】 海洋情報部と庶民の良心

海洋情報ネットワークのプレゼンテーションが功を奏し、ヴァルターは海洋情報部のメイファン女史を紹介される。たった一人で始めたプロジェクトだけに、女史の理解と助力は大きい。一方、リズは、ファルコン・マイニング社の進出に不安を感じながらも、MIGの一員として積極的に研修や会合に参加し、見聞を広める。そんな彼女に、ヴァルターは『庶民の良心』を言って聞かせ、いつか必ず状況も改善すると励ます。

ネットワーク構築の準備が着々と進む中、ヴァルターはメイファン女史から、アステリアの海洋産業においてリーダー的存在であるノボロスキ・マリンテクノロジー社の情報管理部長フェレンツを紹介される。そこでも海洋情報ネットワークの重要性をとうとうと説くが、フェレンツ部長の態度は厳しい。思わず喧嘩腰になり、最後は物別れに終わる。

【抜粋】 情報行政とデータ共有を考察する

本当は誰もが平和と幸福を望んでいる:大衆の良心

※ ヴァルターとリズのデートにて

「私、本当に幸せよ。嬉しくて胸が弾けそうなくらい。こんな素敵な時間を過ごせるなんて夢にも思わなかった……」

「君もずいぶん淋しいことを言うね。いくらパパの監視が厳しくても、いろんな楽しみがあるだろうに」

「友達と食事しても、スパに出かけても、楽しいのはその場限り。心の底から笑ったり、幸せに感じたことはなかった。いつも上辺だけで生きてるみたいで、どこか淋しくて……」

「それは分かるよ。でも、皆、大なり小なり似たようなものじゃないかな。君にはセキュリティの問題もある。皆と同じように、のんびりとはいかないだろう」

「周りは私の好きにすればいいと言うけれど、父や伯母の苦労を思うと、私だけ勝手気侭に振る舞う気になれなくて。何かあっても、父や伯母に替わって会議を切り盛りできるわけでもなければ、資金を調達できるわけでもない。言いつけを守って、せめて身の安全くらいは自覚するしかないもの。窮屈だけど仕方ないわ。そういう定めに生まれついたんだものね」

「それもいいじゃないか。『自分の人生』や『自分の生き甲斐』がいつでも一番とは限らない。そういうのが格好いいと思った時期もあったが、自分の好きなように生きることが必ずしも美徳ではないと、ここに来て悟った。君も良くやってるよ。本採鉱まで漕ぎ着けたのは、君がパパの言いつけを守って協力したことも大きかっただろう。君の身に何かあれば、接続ミッションどころじゃなかったはずだよ」

<中略>

「君は依然として『アル・マクダエルの娘』だし、何よりも安全が第一だ。自由が欲しい気持ちも解るが、命あっての自由だろう。まして今は海台クラストの生産が始まって、世界中が趨勢を見守っている。こんな時に問題を起こせば、いくら最高の技術と人材を誇っても、パパだって仕事に集中できないだろう。だからといって、今の状況が永遠に続くとは思わないし、いつかはのびのびと海岸を散歩できる日も来ると思う。情勢が落ち着いて、採鉱事業が軌道に乗るまでの辛抱だよ」

「情勢が落ち着くのを待ってたら、おばあちゃんになっちゃうわ」

「そんなことはない。ファルコン・マイニング社がこれほど早く動き出したということは、それだけ採鉱プラットフォームのインパクトが大きいということだ。案外、数年で情勢が大きく変わるかもしれないよ。それこそ勢力地図が書き換わるくらいに」

「そうね……」

「その為に、俺も海洋情報ネットワークを作ろうとしてる。それが本当に防波堤の役目を果たすかどうかは分からないが、海のことが一般により深く理解されれば、物事も少しずつ変わっていくだろう。この広場を見てごらん。大半の人は身の丈に合った幸せな暮らしを求めてる。鉱物資源を独り占めしようとか、もっと資産を増やそうとか、そんな事に躍起になっている人は一人としてない。皆、芸能やスポーツの話題に夢中になって、一見、社会には何の関心もないように見えるが、心の底では美しいものや正しいことを求めている。そういう人たちの心を動かせば、潮の流れも変えられる。現に俺の故郷でも、一方的な再建計画が遂に中止になった。こうした普通の人々が立ち上がり、全力で抗議してくれたからだ。一般社会が動けば、君の状況もきっと改善する」

海洋情報ネットワークの重要性:海洋情報部にて

アル・マクダエルの紹介で、海洋安全局・海洋情報部長のメイファン女史を訪ねる。コネクションが繋がったきっかけは、アル・マクダエルとメイファン女史の何気ない会話だった。

「理事長が?」

「そうよ。海洋情報のマネージメントに関わる話だから是非に、と声をかけて下さったの。あれは二年前だったかしらね。官民合同の海洋行政の勉強会で初めてお目にかかった時、情報マネージメントに関する不満を口にしたことがあったの。それを覚えてらしたのね。私の方はすっかり忘れていたのに、先週、突然お電話を頂いた時は本当にびっくりしたわ」

「不満……ですか?」

「ほとんど愚痴みたいなものよ。私がここに赴任したのは六年前、夫がブルーライン海運公社の副社長に抜擢されたのをきっかけに、夫婦二人で引っ越してきたの。私は元々、アステリア開発局の海事課で、十五年前から行政機関が保有する海洋観測データ管理に携り、トリヴィアのオフィスから遠隔でマネージメントしてきたんだけど、夫の栄転を機に海洋情報部への転属を願い出てね。たまたま人手不足だったこともあり、すんなり受け入れられたの。当初はトリヴィアのオフィスで手掛けていた業務と似たようなものだったけど、ここも飛躍的に経済規模が拡大して、海上安全局が取り扱うデータも膨大になってね。従来のやり方では、とてもじゃないけど追いつかなくなってるのよ。それで私は各機関に海洋データの一元管理と情報システムの再構築を提案したのだけど、そうなると専門チームを新設して、データベースも一から作り直さなければならないでしょう。そんな予算もなければ人材もないと毎年見送られて、そのまんま。でも、今の管理体制でデータだけが蓄積されても、それを社会に生かす方策がなければ宝の持ち腐れだし、海洋都市ならではのノウハウも身に付かないでしょう。確かに、新たな情報システムを構築したところで、すぐに何かが変わるわけではないけれど、数年、数十年の長いスパンで海象の分析が必要になった時、外部の人間はもちろん、現場スタッフでさえ、どこに、どんなデータが保管されているか知らない。どう活かせばいいかも分からない。検索するにも二重三重に面倒な手続きが必要で、おまけにデータの取り扱いに関する明確なガイドラインもない――となれば、困るのは行政であり、区民であり、海洋開発の次代の担い手だと思わない?」

「その通りです」

「そういうことを、マクダエル理事長にお話していたの。まさか、あれほど鮮明にご記憶とは夢にも思わなかった。そして今回、あなたのプレゼンテーションを拝見して、やはり問題の本質は分散管理とガイドラインの不在、管理者の認識不足にあると痛感した次第。ここ数年、心の中でもやもやしていた疑問をあなたが代弁して下さったように感じたわ。お恥ずかしい話、私も部長職をこなすのに精一杯で、具体策を呈示するに至らなかった。でも、あなたのように同じ考えを持った方が率先して動いて下さるなら、私もぜひ協力したいと思ってね」

彼は思わず身を乗り出した。

「それはプロジェクト構築に向けてトリヴィア政府に働きかけて下さる、ということですか?」

「私にそれだけの権限があれば、ぜひそうさせて頂きたいところよ。でも、私には組織の『長』としての立場もあるから、いかに優れたアイデアでも全体の意向を無視して勝手に話を進めるわけにいかないの。部長といえど、自分の一存で人を雇うこともできないのよ」

「それは分かります」

「だからといって、あなた一人でおやりなさいと言ってるわけじゃないのよ。理事長曰く、あなたは気概も行動力もあるそうだから、ぜひ先鋒に立って働きかけて頂きたいの。その分、私も裏でサポートします」

「どのようなサポートです?」

「私は海洋情報部長としていろんなコネクションを持っているし、政府の要人に面談を申し込んだり、区政に議案を提出したり、あなたには許されないことも出来る立場にあります。もちろん、私の一存ではどうすることも出来ない事もあるけれど、あなたが動きやすいように、できるだけ便宜を図るつもりです」

すると彼も納得し、

「アステリアは属領で、条例一つ変えるにも二重、三重のプロセスが必要だそうですね。まず区議会で話し合い、十二人の管理委員の承認を取り付けた後、トリヴィアのアステリア開発局を通して、やっと産業省の認可が下りるような長丁場だと聞いています」

「そうね。ここ数年は区議会の権限も拡大されて、以前ほど緩慢ではないけれど、大きな予算の絡む政策や、暮らしや産業を根底から変えるような決定は何段階もの手続きや承認を経て、やっと実現するような感じよ。もういい加減、管理委員会を解体して、区議会だけで取り決めようという声も上がっているのだけど、トリヴィアはまだまだ自分たちの影響力を失いたくないのか、それも毎年見送りでね。一進一退よ」

「じゃあ、海洋情報ネットワークを構築するとなれば、海上安全局や区政はもちろん、トリヴィア政府の上層部まで認可が必要でしょうね」

「そうね。本格的なオープンデータ・システムを構築するなら数十億エルクの予算が必要だし、専門のチームも新設するから、まずは区議会の同意、次にアステリア開発局、政府審議会、最後に産業大臣の認可を経て、やっと動き出すような感じね」

「何年もかかりそうですか?」

「それは状況によるわ。災害支援や海上交通規制など、緊急性の高い案件は数日で通るけど、税制の見直しや条例の改正、公的機関の拡充みたいな話はどうしてももたつくわね。特にアステリアの財政の六割は自治領の支援金で賄われているから、多額の出費を伴う話は至難の業。それでも海洋情報ネットワークの構築は急いだ方がいいと思うわ。今度はウェストフィリアの開発に着手すると言うし、まともに全海洋観測システムも機能してないのに、一体どうするつもりなのかと首を傾げたくなるほど。それでなくても、ウェストフィリアの北東海域は海象が厳しいのに」

「前に調査船の座礁事故があったと聞いています」

「氷漬けのコンチネンタル号でしょう。あれも多数の死者が出なかったのが不思議なくらい。よくあんな気候の荒れやすい時期に、海底地形の複雑な場所に行ったものだと思うわ。あの辺りは海面すれすれまで海山の頂部が隆起して、周囲は水深数百メートル、海山頂部は数メートルみたいな箇所が多いのよ。深海のつもりで航海していたら、あっという間に波にあおられて、タイタニック号みたいに船底を海山の頂部にこすりつけるの」

「実際、どの程度の海洋観測が行われているんです?」

「まともに調査船が走ってるのはローレンシア海域だけよ。他は観測衛星や人工飛行機、何十年も前に設置した観測ブイや自動測定器に頼ってる。海底地形だって、ローレンシア海域を除けば、精度の粗いデータしか取れてない。ましてウェストフィリアや海の反対側なんて完全に未踏の世界よ。それもこれも行政の認識の甘さゆえ。とりあえずローレンシア海域が安全ならそれでいいと思っているのでしょう。海のことは一部だけ切り取って語れるものではないのに」

「それは大いに共感します」

「私が海洋情報ネットワークについて公に働きかけたいのは、政府は元より、企業にも一般区民にも、もっと認識を高めてもらいたいからなの。たとえプロジェクトの認可に数年かかっても、全体に問題提起すれば、誰もが一度は見直すでしょう。船がスケジュール通りに走ればいい、海辺のホテルが儲かればいい、というものではないはずよ」

「その通りです」

「ご理解くださって嬉しいわ。何しろ、アステリアは民間企業が牽引してモザイク的に発展してきた経済特区でしょう。管理体制が整ったのもここ十数年ほどの話。それ以降、組織の規模も権限もさして変わってないのに、流入する人や企業はうなぎ登り。社会の動きに管理体制が全く追いついてないのよ。区政やトリヴィア政府の一部からは、ここを独立市(シティ)に制定し、大部分を自治に任せようという声が上がっているのだけど、そうしたくない人たちも一定数存在するからね。画期的な意見が出ても、実現するのは何かと難しいわ」

「よくある話ですね」

フェールダムの再建も、一部には新たな利権の源でしかなく、企業の思惑や有力者の圧力が入り乱れ、元住民の願いは後ろに置き去りにされたまま、何年も放置されてきた。 
上層が見向きもしない問題を、ヤン・スナイデルをはじめとする学生ボランティアが柄杓(ひしやく)で運河の泥を掻き出すような努力を重ね、やっと全国規模で問題が認識されるようになったほどだ。一部にとっては『故郷の再建』などどうでもいい話。そこに帰りたがっている人々の願いも虫の囁きでしかない。「これがアムステルダムやロッテルダムなら、国中ひっくり返しての大騒ぎになるのに、遠い地方の田舎町など、どうでもいいんだな」とヤンも悔しさを滲ませていたのを思い出す。

そして、アステリアも遠海の島社会であり、心底から未来を憂う人の声など上には一向に届かないのかもしれない。

【リファレンス】 NOAAのデータ検索システム

NOAA『アメリカ海洋大気庁』のデータ検索システム。

http://www.esrl.noaa.gov/gmd/dv/data/

ここで言う「一元化」というのは、IT界にたとえれば、MicrsoftやYahooのトップページみたいに、一つの画面、一つの検索システムから、国内、海外、経済、文化、スポーツなど、あらゆる情報が検索できることです。
何かを調べるのに、海外ニュースは、Micrsoft International、スポーツは Microsoft Sport、買い物は Shop MS の専用サイトでお探し下さい・・となれば、どこに何があるか、分からないでしょう。
また、一つ一つの情報をカテゴライズして、各部署に任せるとなれば、手間も経費も膨大。
海洋情報も、「このページからアクセスすれば、何でも出てくる」となれば、分かりやすい。
気象はどこそこ、海底地形はあっち、航行に関する安全情報はコチラ、とかやってたら、どこに何があるのか、ユーザーには全く分からないし、利用する気にもなりませんよね。要は、Googleの検索窓みたいにポータル化しよう、というのが『海洋情報ネットワーク』の趣旨です。

海洋情報ネットワーク

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『曙光』上巻 ~”海底鉱物資源を採掘せよ”から”屁理屈だけは超一流”まで



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ニムロディウムという架空の金属元素を中心に、鉱業、海底鉱物資源、深海調査、海洋情報ネットワーク、建築&デザインなどをテーマに描く人間ドラマ。水深3000メートルに眠るニムロディウムの採掘は世界を変えるのか。生の哲学を中心に海洋社会に生きる人々の願いと攻防を描きます。Google Driveにて無料サンプルPDFも配布中。

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