人間が大事なのか、商品が大事なのか 人と思想『マルクス』小牧治

人間が大事なのか、商品が大事なのか 人と思想『マルクス』小牧治
『人間の本質は、実践的・主体的にかかわりあう社会的人間である。だいじなことは、人間の社会的実践であり、現実を変革することである』労働者の不幸を救うには、社会の仕組みを変えるしかないと考えたマルクス。人間と商品、どちらが大事なのか。生産活動において搾取され、自己疎外されていく労働者の現状を解説。

一つの社会的事件:人間が大事なのか、商品が大事なのか

日々『ライン新聞』で議論を戦わせるマルクスの時代に一つの社会事件が起きる。

ライン州の議会は、慣行に従い、木材を採取した者に対する罰則や取り締まりを強化し、枯木や枯枝を拾った者まで「窃盗」扱いすることに決定したのだ。

小牧氏は、日本の「小繋事件(明治時代、近代的な私有制が確立されたことにより、村民が共同で使用していた小繋山がある個人の私有地となり、村民の利用を制限して、この山を自分の為に自由に処分できる所有権を行使しようとする)」を引き合いに出し、州議会の利己性とマルクスの怒りを分かりやすく説明している。

抜粋は一部省略しています

いったい人間が大事なのか、木が大事なのか。人間の権利は、木の権利のまえに屈服してはならないし、人間が木という偶像のまえに敗れて、そのいけにえとなってはならない。

ところが、この法(木材窃盗取締法)においては、すべてがゆがめられ、さかさまになっている。人間の権利は若木の権利のまえに屈服している。

この法律のなかの原理は、森林所有者の指摘利益の保護いがいのなにものでもない。この私的利害こそが、究極の目的なのである。なにが善であり、なにが正義であり、なにが法であり、なにが裁判の公平であり、逆に、なにが悪であり、なにが不正であり、なにが犯罪であり、なにが不公平であるかは、すべてこの森林所有者という権力者の利害感によって決定されているのである。

そこでわれわれは要求する。政治的にも社会的にも何ものも持たぬ貧しい大衆のために、次のことを要求する。貧しい最下層の大衆の権利そのものである慣習法を、かれらの手にわたせ、と。

たとえば、村人の共有地だった野生のイチゴ畑が、ある日、法改正によって、Aさんの私有地になるとする。
当然、Aさんは自分のプロパティとして、立ち入りを制限し、勝手にイチゴを採ったものは窃盗罪として訴えることができる。
イチゴが欲しかったら、Aさんに入場料を支払うか、イチゴ畑で働いて、イチゴの市場価値に見合う労働力を差し出すことになる。

その理屈は分かるが、それまで村人の共有地であり、生活の糧だったものを、法の一点で区分けしていいのか、という話だ。

そして、イチゴ畑の私有化の為に、村人が生活の手段を立たれ、飢えに苦しむなら、人間とイチゴ(法律)と、どちらが大事なのか……というのが、マルクスの論点である。

その後、非常に重要な疑問が湧いてくる。

かれは、もの(木材)とものにまつわる利害が神になり、君主になり、人間がそれの手段となり、奴隷となり、人間らしさを失っているという転倒に気付いてきた。しかし、どうしてこういう矛盾がおこるのであろうか。なまの現実で、こういう転倒がおこってくる仕組みや原理は何なのであろうか。それは、まだマルクスにはわからなかった。

つまり「村人が可哀想」「私有化したAさんはひどい」と感情論を唱えても、物事は変わらない。Aさんを悪人に仕立てて、イチゴ畑を解放することも可能だが、それでは根本から解決したことにはならない。

そうではなく、なぜそうなったのか、何が間違いなのか、どうすれば是正できるのか、科学的に分析し、具体的な解決策を提示することが重要なのだ。

人間とは社会的存在である

上記のような疑問から出発したマルクスは、政治的解決による救済を真摯に考えるようになる。
その一つがフォイエルバッハ批判だ。

なぜ人間は、みずからの本質を失い、神とか、絶対精神とかいったものを夢みるのか。
そういう自己喪失、すなわち、いわゆる人間の自己疎外は、なぜおこり、どうすれば治癒できるのか。フォイエルバッハでは、それが明らかにされていない。

問題は、人間に夢をつくらせ、人間を疎外させている現実であり、政治であるのではなかろうか。

先ほどの、サッカー部の鬼コーチを例に挙げてみよう。
「俺の言う通りにすれば勝てる」「お前たちは黙って俺の言うことを聞いておればいい」という鬼コーチは、従順な選手だけを重宝し、逆らう選手はどんどんレギュラーから外していく。それが常識になると、選手は自分で考えることを止め、何もかも鬼コーチの判断に委ねるようになる。

鬼コーチの指示に従えば、要領よく勝てるが、何かおかしい、何か物足りない、自分が自分でないような気がする……選手らは自己疎外感を覚えるようになる。

そうした問題を解決する方法は主に二つ。

1)選手が自己鍛錬し、各自で悩みを克服する。

2)鬼コーチに不満を申し入れ、部の方針を見直す。

マルクスは後者の立場で、鬼コーチの態度や部の方針を改めようとする。各自がどれほど頑張っても、同じ体制が続く限り、苦悩も続くからだ。
抜本的な改革を図るなら、個人の意識を高めるだけでは限界があり、仕組みそのものを変えようというのがマルクスらの主張だ。その為には、何が原因で、何が間違いなのか、皆に分かりやすいよう提示する必要がある。その為の勉強であり、分析なのだ。

そして、マルクスは、社会における人間を次のように定義する。

人間の本質は、実践的・主体的にかかわりあう社会的人間である。

だいじなことは、人間の社会的実践であり、現実を変革することである。

社会に生きる人々は、たとえ孤独が好きでも、無縁者でも、社会と何の関わりなく存在することはできない。一見、独りで生きているように見えても、意識下には絶えず周りの社会がある。見方を変えれば、社会というものを意識するから、孤独や劣等感、自己無価値感に苦しむのである。
社会という枠組みを無視して、人間の真の幸福は有り得ない。
個人に意識改革を求めても、社会に生きている以上、限界があるのだ。

人間の解放:真の自由と平等とは何か

マルクスの目指す”人間の解放”は、単なる政策や法律の変更にとどまらない。
なぜなら、小手先の方策を変えたところで、根本的な解決にはならないからだ。

小牧氏は次のように解説する。

政治的に解放されて、自由・平等の権利をあたえられたとて、それは、形式的、法律的な自由・平等であって、ほんとうの、具体的な自由や平等ではない。選挙権が平等にあたえられ、職業の自由があたえられたとて、それは形式的な平等や自由であって、現にいまおこっている不自由・不平等を解消することにはならない。

問題は、政治的な解放、つまり国家がひとしい政治的な権利や自由をあたえることでなく、人間の解放である。

人間が利己的で、みんなが個々バラバラに営利や金銭を追求してやまないかぎり、そこに対立や矛盾や闘争や不平等がおこるのはあたりまえである。だから問題は、こういう、いわば利己的・個人的な欲望そのものの争いともいうべき、この私有制にもとづく市民社会そのものにある。

だから、問題は、こういう市民社会から人間を解放することである。こういう私有制の上にたつ社会、対立、矛盾、闘争、利己の支配する市民社会から人間を解放することによってはじめて、人間の真の解放は実現するのである。

こうしてマルクスは、私有制にもとづく現実の市民社会の矛盾・対立・無秩序・悲惨・闘争を除去する道を、ばくぜんとはいえ、社会主義への方向においてとらえたのである。

この部分は、現代においては、おおいにエクスキューズがあるだろう。
ここまで物質的、あるいは技術的に爛熟した時代において、『私有を認めない』というのは無理がありすぎる。
それよりは、私有を認めつつ、格差の是正や富の偏在の解消に努めた方がいい。
確かに、全員一律、不公平をなくすことは素晴らしいが、欲望あっての進歩でもある。
それは時に強欲や支配をもたらすが、一方で、創造のモチベーションとなる。
要は「度合い」の問題であって、富も権力も一カ所に傾きかけたら、理性と仁徳をもってバランスを正すこともできるのではないか。

しかしながら、私がそのように思うのも、福祉が充実した現代に生きているからかもしれない。いわば『革命後の社会』――社会のシステムは変わらなくても、人権や平和の意識が高まり、法制度も生活レベルも著しく向上した21世紀に比べたら、19世紀など、当たり前のように人権侵害や搾取が行われていた時代である。そうした現状を目の当たりにしたら、社会のシステムを根本から変えるしかないと考えるのも頷けるし、また、そうした思想があったからこそ、労働者の権利意識も芽生えたわけで、そのあたりは、やはり必要不可欠な思潮のプロセスだったのかと思う。

小牧氏いわく、

では、この現実、この政治、この市民社会がはらんでいる矛盾は、どうすれば解決されるのか。だれがどうすればよいのか。そこでマルクスは、市民社会のなかにありながら市民として取り扱われず、人間らしい自由や平等や所有からまったく見放されているプロレタリアートに解決の力をみいだしたのである。市民社会のなかで生みだされ、しかも市民社会のなかで人間らしさをまったく喪失しているこの階級に、人間が人間らしさをとりもどし、人間が人間として解放されるための期待をよせたのである。

だが、プロレタリアートという力が、この革命をじっさいに実現するためには、武器を、頭脳を必要とする。それは、人間が、人間にとって最高であるという、新しい哲学である。この新しい哲学はその具体化のためには、この市民社会をじゅうぶんに分析し、解剖しなくてはならない。

ところで、この市民社会そのものが欲望を原理とするかぎり、それは、わけても経済的な社会であり組織である。市民社会のなかで産みだされたプロレタリアート自身が、実はこういう経済機構によって生みだされたものにほかならなかった。

したがって、そこはかつての国家や法や政治の分析をこととした法哲学ないし国家哲学に、市民社会の経済構造の分析・解剖の学、すなわち経済学がとってかわらなくてはならない。

いまやマルクスは、明確な自覚のもとに、経済学の勉強にとりくまなくてはならなくなったのである。人間の自己疎外の克服としての革命、人間の本質(類的存在)の奪回としての革命、人間の真の解放としての革命、そのような革命に、精神的武器をあたえるために。

今でこそ会社や工場で働く人には『従業員』『社員』『非雇用者』という自覚があるけれども、急激に工業化が進み、労働階級が大量に生みだされた時代においては、「雇用関係」という概念も、「労働法」の重要性も、資本社会における自身の立ち位置すら、分からなかったのかもしれない。

そう考えれば、私有化の廃止を前面に打ち出し、労働階級の結束を強く呼びかけたマルクスの真意も理解できるだろう。

たとえ100年後、200年後の社会にフィットしなくても(そんな芸当はどんな優れた経済学者にも無理)、社会問題と徹底的に向き合い、一つの解答を導き出したことがマルクスの最大の偉業だ。誰も声をあげなかったら……誰も社会科学として分析しなかったら……労働環境の改善も、権利の保障も、ずっと後回しにされていたかもしれない。

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大正生まれの文学博士・小牧治氏による、思い入れたっぷりのマルクス入門編。
ごりごりと思想を押しつけるのではなく、なぜ共産主義が生まれるに至ったかを分かりやすく解説。
19世紀の実状や欧州の思潮の把握にも役立ちます。Kindle版もあり。

 
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