疎外された労働『経済学・哲学手稿』の誕生 人と思想『マルクス』

疎外された労働『経済学・哲学手稿』の誕生 人と思想『マルクス』
働けば働くほど不幸に感じるのは何故か。自己実現としての労働、社会の一員としての尊敬を基軸に『人間は労働を通して社会的存在になる』の本質を解く。労働者を幸福にするには生産システムを改革せねばならないという、マルクスの思想の真髄がここにある。

疎外された労働:『経済学・哲学手稿』の誕生

「プロレタリアートは市民社会のなかで産みだされながら、およそ市民らしい取りあつかい、およそ人間らしい取りあつかいから、まったく見はなされている。だから、かれらこそ立ちあがらなくてはならない(小牧氏)」

こうした社会的義憤と使命感から、マルクスは国民経済学やフランス革命について猛勉強をし、最初の書『経済学・哲学手稿』を著す。(マルクスが書きためた原稿をモスクワの『マルクス=エンゲルス研究所』が実際に刊行したのはおよそ90年後の1932年)

この本の内容は、初期マルクスの人間観、人間解放論、ヒューマニズム、あるいは人間疎外(人間の本質を失うこと)論を表現するものとして注目された。

とくに注目され問題とされる論は『疎外された労働』と編集によって名付けられた章である。

小牧氏いわく、マルクスのノートにはこう書かれている。(一部、省略して抜粋)

動物は、ただ欲望のままに生きているだけである。ところが人間は、意識的に、自覚的に生きている。人間とは、たったひとりであるのではなく、類的な存在(社会的なつながりのある存在)であった。<筆者注:”人間は労働を通して社会的存在になる”という言葉の核にあたる>

類的な生活とは、手をこまねいていることではない。自然にはたらきかけて、労働することである。自然に働きかけて、ものを生産し、それによって生きることである。労働し生産して、人間の類的本質(社会的共存)を実現する、それが人間のほんとうのありかたであり、それが人間の真の自由なのである。つまり、生産的労働こそ自己の実現であり、類をなしている人間のありかたであり、本質なのである。

ファストフードの従業員に喩えてみよう。
仕事の動機は「収入」だが、同じ働くなら「職場で認められたい」「お客さんに喜んで欲しい」という思いがある。何故なら、人は社会的存在であり、社会の評価や関わりなくして自己価値は実感できないからである。
八時間労働、時給1000円で働くにしても、職場で人として尊重されながら従事するのと、「お前なんか居ても居なくても同じだから」「イヤなら辞めてもらっていいから」と人格無視されるのでは、まったく異なるだろう。

つまり、人間というのは、もちろんお金の為に働くのだけれども、それと同時に、やり甲斐や自己肯定感、承認を求めるものでもある。それは決して見栄や贅沢ではなく、『社会的存在』という特性がそれを求めるのだ。日々の糧を得れば満足する動物とは大きく異なる点である(ペットでも飼い主の愛情は求めるものだが)

ところが現状はどうであろうか。市民社会のなかでは、逆になっている。労働の実現の成果、いいかえるならば、労働者が生産した生産物は、かれの本質の実現であるはずである。ところが、市民社会では、この生産物は、それをつくった労働者のものではなくなっている。

労働者のものではないどころか、労働者によそよそしい疎遠なものとして対抗し、労働者を隷従させ、労働者を苦しめている。

自己の実現が、非実現となっている。

自己の本質の獲得であるべきものが、ここでは喪失となっている。

つまり、労働もしなかった人、自己を実現しなかった人に、独占され私有されている。

生産物が肝心の実現者(生産者)によそよそしく対立し、かれを苦しめ、奴隷にしている。労働者はみずからの実現としての富を多く生産すればするほど、生産の力と量を増大すればするほど、ますます貧しくなる。

要するに、労働によって自分自身を、自分の本質を、人間という類いの本質を、実現していくことができなくなっている。労働によってものをつくり、もってみずからを豊かにしていくという人間らしさから、見はなされている。それが「疎外」といわれる現象である。

しかし、市民社会でのこの疎外は、たんに生産の結果(生産物)においてだけではない。生産活動そのもの、つまり人間が自己の本質を実現するプロセスそのものが、すでによそよそしいものとなり、他人のものとなり、かれじしんには属していない。だから労働者は、労働していることにみずからの創造の喜びや幸福を感じないで、苦痛や不幸を感じる。

自由な自己実現のはたらきは、肉体的・精神的エネルギーを発展させることなく、逆に肉体を辛苦させ、精神を荒廃させる。だから、労働者は、労働のなかで苦痛を感じ、労働しないときに自由やアットホームを感じる。市民社会での労働は、苦難であり、自己犠牲であり、他人のものとなっている。労働者の生活活動は、自己活動、自己実現ではなく、他人の所有に帰している。

「労働者はみずからの実現としての富を多く生産すればするほど、生産の力と量を増大すればするほど、ますます貧しくなる」というのは、何の手応えもなく働いていれば、商品はどんどん生産されて会社は儲かるかもしれないが、自分自身は摩耗して不幸感が増す、という意味だ。
ここでいう「他人のもの」というのは、「生産手段を有する者」と考えると分かりやすい。
労働者は、何万時間働こうと、会社で何億を売り上げようと、工場や設備や会社の敷地が自分のものになることはない。
給料はもらえるが、給料を何千万も積み立てても、生産手段を有することはない。
積み立てを元手に工場を作れば、生産手段を有する者になるが、そうでない限りは、何万時間働こうと、月給50万に昇格しようと、生産手段を有する者とは厳然たる差があるわけだ。
そして、月給取りは、働かなければ、収入が途絶えて、死ぬ。
それは時給1000円でも、年収1000万円でも同じこと。
自らが生産手段を有するのでなければ、一生、どこかで働いて、給料を得なければならない。病気や介護で退職を余儀なくされたら、エリートだろうが、ベテランだろうが、収入は途絶え、たちまち転落するのが労働者階級の宿命なのだ。(もちろん近代国家には生存権と福祉制度があるが、生活の質が著しく低下するのは免れない)

だから、資本家は悪、私有化は禁止――というわけではなく、時給1000円の労働者だって、いくらかのお金を貯めて、アイスクリームショップを開いたり、マンションの一室を買い取ってレンタルオフィスに利用したり、生産手段を持つ側に転じることはできる。また、そうした夢がなければ、どんな労働も続かないわけで、現代には現代の事情に応じた救済策がある。

いずれにせよ、労働においては、人間として尊重されることが何よりも重要で、それはどのような体制が布かれようと変わりない。

人間にとって労働とは給金や待遇の問題ではなく、社会の一員として生きていく為の大きなステップだからだ。

唯物史観:気持ちを変えるか、システムを変えるか

こうして、世界的にも、マルクスの中でも、徐々に社会科学としての共産的な考えが育まれていくわけだが、誰もが同じ方向性で労働者の解放を目指していたわけではない。小牧氏いわく、

矛盾のない理想社会をつくるために、あるものは、資本家や中産層や政治家の理性に訴えた。あるものは、共産主義的規範を示そうとした。あるものは、理論だけを高くかかげた。あるものは、いきなり武装蜂起した。しかし、それらはマルクスによれば、空想的であり、非現実的であった。マルクスは、さきにみてきたごとく、プロレタリア階級による社会革命のなかに、真の自由と平等、真の人間解放への道をみいだしたのであった。

おそらく、今、主流になっているのは、「資本家や中産層や政治家の理性に訴える」ことではないだろうか。経営者も、政治家も、思いやりを持ちましょう、弱者に救いの手を差し伸べましょう、人にやさしい社会を、という呼びかけだ。

それも大事かもしれないが、現実に制度や政策を改めなければ、根本的な問題は解決しない。
たとえば、長時間労働が当たり前の職場で、「残業代は出しませんが、職員は人間として尊重します」「皆で励まし、支え合います」と理性に訴えたところで、従業員のおかれた現状は変わらない。社長に優しい言葉をかけられるより、午後五時退社や有休消化の方が有り難い人の方が圧倒多数だろう。
個々の理性や善性に訴えかけても、改善できるのは表面だけで、問題の根っこを改めない限り、真の解決は有り得ない。
こうした考え方を「啓蒙主義的理性」あるいは「空想的社会主義」という。

対して、マルクスが目指したのは、「唯物史観(史的唯物論)」だ。

観念的見解というのは、頭であれこれ考えめぐらし、頭でつくりあげた像が、ただちに現実に存在するかのごとくみなす、非現実的で、神がかった哲学のことである。それは、ものごとを眺めてあれこれ解釈しているだけで、実践や変革をめざさない。これに対立する見解(唯物論的見解)は、ものごとを、現実の自然的・政治的・経済的・社会的な関連ないし運動のなかで考える。それは、自然をもふくめた世界のいっさいを、運動し、変化し、関係するものとして把握する(「唯物弁証法」とよばている考えかた)。そして、この唯物弁証法が人間の世界ないし歴史に適用されたものが、「唯物史観(または史的唯物論)」とよばれるものである。

その具体例として、プルードンの『貧困の哲学(正しくは、経済的諸矛盾の体系、あるいは貧困の哲学』に対する反駁が挙げられる。

プルードンは不労所得(小作料・家賃・地代・利子・利潤)を批判し、当時の小市民に支持されたが、その立場は「人々の理性に訴えかける」という点で、革新的ではなかった。つまり、経済減少の善い面は残して、悪い面は除去する、という考え方である。

それに対して、マルクスは『哲学の貧困』で、次にように批判する。

プルードンが、労働者の賃金と、その賃金による労働によって生産された生産物の価値とが同じだとするのは、とんでもない。賃金とは、労働者の生存と繁殖(家庭生活)のために必要不可欠なお金(価値)のことである。

この賃金と、この賃金のもとで労働者によって生産されたものの価値とは、けっして同一ではない。

同一ではないから、賃金によって自分の生産物の値打ちと等しいものを、つまり自分の労働時間に相当する値打ちのものを、手に入れることはできない。

逆に、労働者は、働いて富をつくればつくるほど、ますますその富から見捨てられ、貧乏になる。賃金は、プロレタリアートを解放するどころか、宿命的にかれらを奴隷にしておく公式なのである。

たとえば、Amazonも、Googleも、小さな会社から出発して、世界的な大企業に成長を遂げたが、そこで必死に働いた人たちは、Amazonの年間売り上げに匹敵するものを手に入れましたか? と考えれば分かりやすい。

超大雑把な計算で。
今日一日、Amazonが100個の商品を売り上げて、10万円の利益を得たとしよう。
配送や梱包を担当した3人の従業員には、それぞれ日給1万円が支払われたが、残りの7万円はどうなったのだろう。
倉庫代、材料費、光熱費、いろんな経費を差し引いた分が「生産手段を持つ者」の取り分になる。
リスクや責任の重さを考えれば、会社のオーナーはマネージャーが底辺の従業員よりたくさん貰うのは仕方ないにしても、果たして、その割合は妥当だろうか。
「どうせ、こんな難しい財務は従業員には分からない。黙っておればいい」という経営者もあるだろう。
そして、従業員が無知であれば、小狡いカラクリにも永遠に気付かない。
「労働者は、働いて富をつくればつくるほど、ますますその富から見捨てられ、貧乏になる」と全てに言い切ってしまうことはできないが、悪いカラクリが存在すれば、そうなっていくだろう。

もちろん、能力に応じて出世し、並より上等な暮らしをしている人は少なくないだろうが、彼らだって会社を首になれば収入は途絶える。なぜなら、実質的に生産手段を有しているのは、会社オーナーであって、社員ではないからだ。
マルクスの考えは、そうしたシステムそのものを変えてしまおうという、現代人から見れば、かなり乱暴なものだが、当時の現状を鑑みれば、そう考えるのも頷ける。

わたしたちは、たまたま法も福祉も整った現代に生まれただけで、もし労働基準法も失業保険も育児手当も何もない時代なら、「システムそのものを変えない限り、労働者に未来はない」と考えただろう。また、そうした試みがあればこそ、現代人も様々な恩恵を受けられるわけで、先人達の試行錯誤は決して無駄ではなかったのだ(その過程で血生臭い事件も数多く起きたのは悲しいことだが)

私有化や共産主義の是非がどうあれ、労働者が自らの権利を自覚し、正しい知識を持つことが肝要。

マルクスの考え方は、

新しい生産力を獲得すると、人間は、かれらの生産様式を変える。生産様式を変えるとともに、かれらの社会生活の様式を変える。物質的生産力に応じて社会関係をうちたてる人間は、またこの社会関係にしたがって、もろもろの思想をつくりだす。こうして、増大していく生産力の運動に応じて、社会関係や思想も、歴史的に変遷し、運動していく。

たとえば、手作りアイスクリームの店が大繁盛すれば、もっと稼ぐために、店主は機械生産に切り替え、アイスクリーム工場を建設する。
すると、厨房で働いていた人の働き方も変わるし、ライフスタイルも変わる。
ある人は調理師から調理部のマネージャー(管理職)に出世し、ある人は「もう君の技術は要らないから」と切り捨てられる。
生産様式が変われば、個々の能力や性格とは無関係に生き方も左右される所以だ。
そして、大勢の働き方や生き方が変われば、考え方も変わる。
一見、私たちは自主的に新しい価値観を創出しているように見えるが、それと同じように、社会環境が人間に及ぼす影響も計り知れないものがある。
自分自身について考えることは、社会の仕組みを理解すること。
社会の仕組みを理解することは、自分の立ち位置を正しく把握することなのだ。

経済学・哲学草稿より

労働者にとっては、資本と土地所有と労働が切り離されていることが致命的なのだ。
賃金を決定する際の、これだけは外せない最低限の基準は、労働期間中の労働者の生活が維持できることと、労働者が家族を扶養でき、労働者という種族が死に絶えないことに置かれる。

通常の賃金は、アダム・スミスによれば、ただの人間として生きていくこと、つまり、家畜なみの生存に見合う最低限に抑えられている。

19世紀の分析は今もほとんどその通り。

そんな中、労働者=人間の尊厳とは何なのか。

近代国家においては、せめて飢えないよう、人間としての権利が尊重されるよう、生存権や福祉制度が敷かれているが、本当にそれで十分なのか。

システム上の綻びはないか。

今一度、検証してみよう。

人間への需要が人間の生産をきびしく帰省するのは、あらゆる商品の場合と変わらない。供給が需要を大きく上まわれば、労働者の一部は乞食や餓死へと追い込まれる。労働者が生存できるかどうかは、あらゆる商品が存在できるかどうかと同じ条件下にある。

そして、労働者の生活を左右する需要は、金持ちや資本家の気まぐれに左右される。供給量が需要を上まわれば、価格を構成する利潤、地代、賃金の一部が価格以下で支払われ、割に合わないその一部は生産に利用されなくなり、こうして市場価格は自然価格という中心点に引き寄せられる。

しかし、(1)大規模な分業がおこなわれている所では、労働者にとって、労働を別の方向に向けることはきわめて困難であり、

(2)資本家に従属せざるをえない関係にあるため、まずもって不利益をこうむるのは労働者だ。

たとえば「働き方」というスタイルが変わっても、賃金労働者の置かれた立場は変わらない。

就業時間が六時間に短縮したり、リモートワークが可能になったり、ボーナスが一ヶ月上乗せされたり、有給休暇の全消化が可能になったり、方法の部分が改善されても、解雇されたら収入が途絶え、生活が立ちゆかなくなる賃金労働者の宿命は同じ、ということだ。

そして、その宿命は、年収300万円でも、年収1000万円でも変わらない。

雇われ人である限り、そのリスクは生涯付いて回る。

その基本を理解しているか、いないかで、庶民の生き方も大きく変わる。

今はよくても、所詮、薄氷の上の暮らしに過ぎない、ということ。

大企業だからといって、生涯の安心が付いて回るわけではない、ということ。

etc

それはあなたが雇う側になっても同様。

相手の立場を考えられるか、否かで、社会の様相も違ってくる。

今マルクスを読み直すにあたって大事なのは、共産主義思想が世界を救うかどうかではなく、ここに綴られた分析をどのように活かすかということ。

その先に、制度をどうするか、業務をどうするか、具体的な方策を考えていけばいい。共産主義うんぬんは、結果として語られるもの。

書籍案内

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マルクスが初めて市民社会の根底たる資本主義経済に鋭いメスを加え、真の人間解放の道を明らかにしようとした研究の草稿である。
後に『資本論』に見事に結実する若きマルクスの鋭い問題意識と洞察に貫かれた本書は、マルクスを研究する上に欠くことのできない文献。

 
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