窓 女性

幸せを待つ間が幸せ フランツ・カフカ『皇帝の使者』

伝わるところによると皇帝はきみに――一介の市民、哀れな臣民、皇帝の光輝のなかではすべもなく逃れていくシミのような影、そんなきみのところに死の床から一人の使者をつかわした。

使者をベッドのそばにひざまずかせ、その耳に伝言をささやいた。

それでも気がかりだったのだろう。あらためてわが耳に復唱させ、聞き取ったのちコックリとうなずいた。

そして居並ぶ綿々の前で <中略> 使者を出立させた。

使者は走り出た。頑健きわまる、疲れを知らぬ男である。たくましい胸を打ち振り、大いなる群れのなかに道をひらいていく。<中略> きみはまもなく、きみの戸口をたたく高貴な音を聞くはずである。

だが、そうはならない。

使者はなんと空しくもがいていることだろう。

王宮内部の部屋でさえ、まだ抜けられない。決して抜け出ることはないだろう。

もしかりに抜け出たとしても、それが何になるか。

果てしのない階段を走り下らなくてはならない。

たとえ下りおおせたとしても、それが何になるか。

幾多の中庭を横切らなくてはならない。

<中略>

このようにして何千年かが過ぎていく。

ヵりに彼が最後の城門から走り出したとしても――そんなことは決して、決してないであろうが――前方には大いなる帝都がひろがっている。

世界の中心にして大いなる塵芥の都である。

これを抜け出ることは決してない。

しかもとっくに死者となった者の使いなのだ。

しかし、きみは窓辺にすわり、夕べがくると、死者の到来を夢見ている。
皇帝の使者 ~カフカ寓話集 (岩波文庫)より

一見、絶望的なシチュエーションだが、待ち続けるのも悪くはない。

なぜなら、その間、人は如何様にでも夢見て、如何様にでも気持ちを変えることが可能だからだ。

きっと皇帝の使者は誰もが羨むような特命をおびて、あなたの元に馳せ参じようとしているのだろう。

それは莫大な遺産かもしれないし、次の王位かもしれない。

一介の市民には身に余る光栄であり、世界最高の幸運に違いない。

だけど、皇帝の使者が訪れたとて――たとえ、それが世界中が羨むようなご褒美としても――それが本当にあなたを幸せにするとは限らないし、あなたが心底欲するものとは限らないのだもの。

皇帝の使者が到着して、黄金の扉が開いたとて、次に待ち受けるのは、形を変えて繰り返されるこの世の現実である。

そして、永遠に天国に行けるわけでもあるまいし、実は、皇帝の使者は、素晴らしいと思えるものを持っているだけで、それはあっという間に失われる類いのものではなかろうか。

そう考えると、皇帝の使者が運んでくる何かよりも、使者の到来を待っている時間の方が、人には楽しいと思う。

それが明日か、明後日かは分からないけれど、いつか訪れる何かを思い描く方が、何かを手にしてしまった先にあるものよりも、自由で柔らかい。

本当に夢みたいなのは、夢見ている時間であって、夢の実現そのものではないのだ。

そう考えると、皇帝の使者が永遠に訪れないのも悪くないし、いつまで待っても訪れないからといって悲観することもない。

もはや人生に夢見ることも、何かを待ち続けることもなくなってしまう方が、ずっと悲劇だから。

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カフカ 頭部のオブジェフランツ・カフカ博物館 正面入り口カフカ博物館前の裸の男のオブジェフランツ・カフカ博物館 正面入り口
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