リアリストは自分が信じたいものを信じる ~信仰と奇跡と自身の基軸(6)

江川卓訳(集英社)『カラマーゾフの兄弟』をベースにしています。
詳しくは「江川訳をお探しの方へ」をご参照ください。 ※ まだ道半ばです

第1編 ある一家の由来

第5節 長老

第4節 アリョーシャ」に引き続き、第5節ではアリョーシャの精神性と、彼に多大な影響を与えるゾシマ長老のことが綴られている。

ゾシマ長老は、筆者いわく,

ゾシマ長老は六十五、六歳、出身は地主で、かつてごく若いころには軍務に服し、尉官としてコーカサスに勤務していた。疑う余地もなく、彼はその一種独特な魂の力でアリョーシャをとりこにしてしまったのだった。

アリョーシャは長老にたいへん愛され、とくに許されて、その庵室に寝起きしていた。

断っておかなければならないが、僧院でこそ暮らしていたが、当時のアリョーシャはまだなんの拘束を受けていたわけでもなく、どこでも好きなところへ幾日でも外出することができたし、法衣をつけていたのも、僧院のなかでとくに目立った服装をするまいと、自発的にしていたことである。しかし、この服装が自分でも気に入っていたことはまちがいない。ひょっとすると、青年アリョーシャの想像力に強い影響力をおよぼしたのは、たえず長老をとりまいていた大きな名声と力であったかもしれない。

しかしながら、筆者の描写を見る限り、ゾシマ長老は奇跡の聖人というよりも、元々の慧眼に知見が備わり、高度なコミュニケーション能力を持つに至ったという印象だ。

ゾシマ長老については、多年、彼のもとへ心の懺悔にやって来ては、ぜひとも彼の助言や心癒やす言葉を聞きたいと願う人々に、だれかれの別なく接し、さまざまな懺悔や、悲嘆や、告白をおのれの心に受け容れてきたので、ついには、彼を訪ねて来る未知の人々をひと目見るだけで、その人がなんのためにやって来たのか、何を必要としているのか、さらにはどのような悩みに良心を責められているのかさえ見抜けるほどの、まことに鋭敏な洞察力をそなえるにいたった、と言われていた。

ときには、訪ねてきた当人がまだ何も言わない先から、その人の心の秘密を言い当ててしまうので、当人が驚き、当惑し、気味悪く思うようなこともあった。

しかし、それでもアリョーシャは、はじめて長老のもとを訪れて、二人だけの対話をする人たちの多くが、ほとんど例外なく、入るときには恐怖と不安にかられた様子をしているのに、出て行くときには、ほとんどきまってはればれとした喜ばしげな顔付きになっており、暗鬱このうえない顔までが幸福に輝くのを、ほとんどいつも目にとめていた。

四条河原町の占い師みたいね。顔を見た瞬間に、悩みを言い当ててしまうという。

占い師に限らず、カウンセラーでも、ドクターでも、「人の悩み苦しみを聞く」ことを職業にしている人は、みな同じ。顔を見ただけで、何となく分かるようになる。飲食店も、士業も、営業マンも、出来る人ほど、人を見る目に長けている。

ゾシマ長老も、いろんな人の悩み苦しみを聞くうちに、そうした人間力を身につけたのだろう。それが聖職だけに、いっそう有り難く感じる。
今も昔も、人の話を聞く職業は不変にして、唯一のもの。

ところでロシアの僧院における『長老』とは、どんな役割を果たすのか。

筆者いわく、

そもそも長老とは何なのか?

長老というのは――人の魂、人の意志を、自分の魂、自分の意志の中に取り込んでしまう存在なのである。いったん長老を選んだなら、人はおのれの意志を捨て、完全な自己放棄とともに、自分の意志を長老へのまったき服従にゆだねることになる。そう発心した者が、このような試練、このように恐ろしい人生行路をすすんで我が身に引き受けるのは、長い試練ののちにおのれに打ち克ち、おのれを統御しえて、ついには全生涯の服従を通じて今度こそ完全な自由、すなわち自分自身からの自由を獲得できる。

そして、一生涯をただ漠然と生きたばかりで、結局は、自分の中に自分を発見できずに終わる人々の運命を免れうる、という希望があればこそである。

少し分かりにくいけれども、つまりは「自分で考え、自分で決める」という当たり前の心の働きを、長老に委ね、任せてしまうということ。

そんな恐ろしい……と思うかもしれないが、こういうことは現代でも十分に起こりうる。

たとえば、怪しげな新興宗教に入れ込んで、教祖の言いなりになる人は少なくない。

宗教でなくても、影響力のあるメンター(精神的な指導者)に入れ込み、日々の行動も考え方も、そっくり言われた通りにする人もある。いわゆる『信者』と呼ばれる人たちだ。

何故、そんなことになってしまうのか。

これは『原罪』をベースに考えれば、分かりやすい。

原罪については、屁理屈と無神論 その理論は本心ですか?《カラマーゾフ随想》原卓也訳(7)にも書いているが、人類の苦悩は、アダムとイブが「神のように賢くなるよ」という蛇の言葉にそそのかされ、知恵の実を口にしたことに始まる。それまで神の教えに従い、楽園で暮らしていたアダムとイブは、自分で考えるようになったが為に、神の教えから離れ、楽園から追放されるのだ。

現代では「自分の頭で考えること」が大事とされているが、人間は神のように完全ではないので、どうしたって判断に誤る。物事に執着したり、損得にこだわったり、なまじ自分の頭で考えたが為に、余計でトラブルを抱え込み、悩み苦しむのである。

そうではなく、万事、神にお任せすれば、少なくとも誤ることはない。

自分で決めたり、考えたりすることを止めて、全て、神の御心――つまりは神の教えを伝道する人に従えば、気持ちも楽になる、というわけだ。

元々、悩み苦しみの多い人は、自分で自分に耐えきれなくなっているから、目の前に理解者が現れると、簡単に自分を手放してしまう傾向がある。

信者のように、決定も、思考も、人生の指針も、全て、「神なるもの」にお任せすれば、心の負荷も軽くなるだろう。

その相手が、ゾシマ長老のように、間違いのない人物であればいいけれど、中には、他人の弱みにつけ込んで、金銭を巻き上げたり、奴隷のようにこき使ったり、まともな判断力を麻痺させてしまう者もいる。

一時期、心の負荷を軽減する為に、誰かに帰依するのも一手だが、あまりに深く委ねてしまうと、まともな判断力も価値観も吸い取られて、かえって破滅するのではないだろうか。

長老の場合、信者から金銭を巻き上げるとか、極端な思想を押しつけることはないだろうが、それでも、(言葉は悪いが)無学な田舎の人々を骨抜きにする――という点で、現代からは考えられないほど影響力があっただろう。癒やしのドクターであると同時に、文化や共同体の在り方にも助言する、社会的指導者の側面も持ち合わせる。

それに対して、教典に左右されず、科学的な思考や価値観を身につけたイワンやミウーソフのような人物が発言力を持ち始めた時代でもあり、その差違は、さながら中世の祈祷師VS物理学者のようだっただろう。

その点、アリョーシャは意外に醒めている。

筆者いわく、

アリョーシャこそむしろだれにもまして現実家(リアリスト)であったように思われる。

むろん、僧院での彼は心から奇跡を信じたにちがいないが、私の考えでは、リアリストはけっして奇跡に困惑をおぼえるものではない。奇跡がリアリストを信仰に傾けさせるのではない。真のリアリストは、もし彼が神を信じない人間であるならば、奇跡をさえ信じないだけの力と能力をつねに自身のうちに見出すはずであり、もし奇跡が否定しえない事実となって現れるならば、彼は事実を認めるよりは、むしろ自身の感覚を信じまいとする。かりにその事実を認めるとしても、それは、これまで自分が知らないでいた自然現象の一つとして認めるだけである。

リアリストにあっては、奇跡から信仰が生まれるのではなく、信仰から奇跡が生まれるのだ。

たとえば、霊水を飲んで、80歳の老婆が20歳ぐらいに若返ったとする。

信者=リアリストでない人は、「この霊水は凄い!」と奇跡をそっくり信じてしまう。

逆に、リアリストは、本当にそんな若返りの霊水があったとして、その事実を目の当たりにしたとしても、そっくり信じたりはしない。

老婆が20歳に若返った事実は認めても、それを「奇跡」とは思わず、「事実は事実」と淡々と受け止めるのみである。(奇跡と信じてのめり込む気持ちとは異なる)

その点、信者=リアリストでない人は、老婆が20歳に若返るのを目の当たりにすると、「奇跡」と思い込み、霊水を信仰するようになる。

リアリストの「信じる気持ち」=自身の感性や判断力に基づく心の力から、思いがけないことを成し遂げたり、憎み合うものと和解したり、奇跡と呼ぶに値する出来事が生まれるのとは対照的である。

筆者はこう付け加える。

信徒トマスは、自分の目で見ないうちは信じない、と言明したが、いざ自分の目で見たときには、「我が主よ、わが神よ!」と言った。

では、彼を信ずる者とさせたのは奇跡だったのだろうか?

おそらく、そうではあるまい。

彼はただ信じたいと望んだゆえのみ信じたのであって、もしかしたら、「この目で見ないうちは信じない」などと言っていたすでにそのときから、心の深奥では、もう完全に信じていたのかもしれない。

イエスの十二人の弟子の一人であるトマスは、イエスが処刑された三日後に復活されたという話を聞いた時、「実際に、その傷跡に指を入れてみるまでは信じない」と言い張っていたが、本当に目の前に復活したイエスが現れ、傷跡に指を入れた時、信じるようになった。

そのエピソードについて、ドストエフスキーはこう解釈する。

トマスは、自分が信じたいものを、信じたのだ、と。

たとえば、自分の尊敬する人の言うことは、何でも信じたいと思う。「信じたいことを、信じる」というのは、そういう気持ち。

トマスにしてみたら、「実際に、目の前に現れて、傷跡に指を入れさせてくれ、そしてオレに復活を信じさせてくれ」といったところ。

事実は、信じる気持ちの裏付けに過ぎない。

【聖トマスの疑い】カラバッジョ
【聖トマスの疑い】カラバッジョ

以上のことから、アリョーシャは純朴で、何でもハイハイと信じこむ単細胞に見えるけども、実際は、誰よりもクールなリアリストであり、「自分の基準」というものをしっかり持っている人間であると言い切れる。

つまりは、騙されない。

自分で見抜く能力がある。

ゾシマ長老に対する気持ちも、盲信ではなく、好意と尊敬が高じたもの。

従って、後々、「一線を踏み越える者」になる可能性は十分に有り得る。

なぜなら、彼は、長老でも、イデオロギーでも、盲目的に何かを信奉することがないから。

これもまた続編への伏線。

江川卓訳による読み直し

江川訳による読み直しプロジェクトはこちらです。(遅々として進んでおりませんが) メモが大量にあって、スキップしている箇所もありますが、注釈なども素晴らしいので、興味のある方はぜひ。 http://novella.blog/chapter/egawa
Photo:Peter HによるPixabayからの画像

カラマーゾフ随想について

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この記事を書いた人

石田 朋子

文芸愛好家&サブカルチャー・ファン。主に70年代~90年代の作品に思い入れがあります。寺山修司の名言『詩を作るより、田を作れ(揶揄)』をモットーに、好きな作品を次代に伝えることを目標にしています。海外在住につき、現代日本とは相容れない所がありますがご容赦ください。趣味はドライブと登山。