俗界で生きよ ~何が人間を強くするのか~                             

カラマーゾフの兄弟(江川卓訳) 第六編 第一節より

死の床にあるゾシマ長老は、心から慕う若いアリョーシャに「家族のもとへは行ったのだな、兄には会ったかの? あすも行くのじゃ、あとのことはほうり出しても、いそぐがよい。ことによると、まだいまなら恐ろしいことが起るのを防げるかもしれぬ。わたしは機能、あの人の大きな未来の苦しみの前に頭を下げたじゃ」と将来カラマーゾフ家で起きるであろう、不吉な出来事を予言する。

わたしはきのう、何か恐ろしいことが予感されたのじゃ……あの人の目つきにおのれの全運命が表れておるようであった。そのような目つきがちらと見てとれたのじゃ――そこでわたしは一瞬、あの人がみずから招こうとしておることを思って、ぞっとなったのじゃ。

<中略>

わたしがおまえの兄のもとへ遣わしたのはな、アレクセイ、兄弟としてのおまえの顔があの人の助けになることもあろうかと思ったからじゃ。だがすべてわれわれの運命は神の思し召しのままじゃ。『一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、一粒のままにてあらん。されどもし死なば、多くの実をもたらすべし』と言われておる」

このシチュエーションは、”父なる『神』と、その子『イエス』”と置き換えても解りやすい。
地上の不幸=父親殺しを察した『神』なる長老が、『イエス』の役割を負うアリョーシャをカラマーゾフ家に遣わすという。
ここでのアリョーシャの役割は、福音を伝え、神の義を呼び覚ますもの。
実際、イワンにしても、ドミートリィにしても、淫蕩父のフョードルさえも、心のどこかではアリョーシャを恃みにしている。鼻先では、神の教えや教会をせせら笑いながらも、だ。
ドミートリィの虚勢も、イワンの無神論も、フョードルの放言も、結局は、神の掌の上での放浪ということ。
最初から神の勝利、というシチュエーション。

お前はこの僧院の壁の外へ出ても、俗界で修行僧として暮らすのじゃ。おまえは数多くの敵を持つことになろうがの、その敵ですらおまえを愛するようになるじゃろう。人生はおまえに数多くの不幸をもたらすだろうが、その不幸によってこそおまえは幸福になり、人生を祝福し、他の者にも祝福させるようになる――これが何より大切なことなのじゃ。

これは僧院に限らず、現代にも通じる、年長者から若者に対する祝福と励ましの言葉。

若くして隠遁するのも意義があるだろうが、アリョーシャは俗界に揉まれて、精神的に逞しくなった方が世のため人のためという、長老の見識でもある。

実際、現実社会で生き抜くほど、人間を強く、賢くするものはない。

アリョーシャの繊細さを知ればこそ、あえて俗界で生きる試練を課したのだろう。

もし、アリョーシャが生涯僧院にこもって暮らしたなら、いっそう慈愛の精神は深まるかもしれないが、実社会に則した知恵や図太さは身につかないだろうから。

カラマーゾフ随想について

『カラマーゾフ随想』は、絶版となった江川卓訳(集英社)をベースに人と社会について読み解くコラム集です。 本作に興味をもたれた方は復刊ドットコムへのご協力をお願いします。投票ページはこちら。
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QUOTE CARD

  • どんな高邁な理想も、言葉だけでは人は動かせない。 身をもって示して初めて、理想が理想としての意味をもつ。 その後、彼は死ぬまで父を忘れず、その生き様を指針にするわけだが、愛とは何かと問われたら、慈しむだけが全てではない。身をもって生き様を示す勇気も至上のものだろう。 誰でも犠牲は怖い。  自分だけ馬鹿正直をして、損したくない気持ちは皆同じだ。  だが、その結果、一番側で見ている子供はどうなるか、いわずもがなだろう。  言行の伴わない親を持つほど不幸なことはない。  たとえ現世で馬鹿正直と言われても、本物の勇気、本物の優しさ、本物の気高さを間近に見ることができた子供は幸いである。 どんな高邁な理想も、言葉だけでは人は動かせない。 身をもって示して初めて、理想が理想としての意味をもつ。...
  • 「創造的」というのは詩を書いたり、絵を描いたり、という意味ではありません。無の平原から意味のある何かを立ち上げることです。 より良く生きる為に、日々、考えること、実行すること、その全てが『創造』です。 どんなに小さくても、昨日よりは今日、今日よりは明日、少しずつでも歩みを進め、善きものを積み上げることを「創造的な生き方」と言います。 「創造的」というのは詩を書いたり、絵を描いたり、という意味ではありません。無の平原から意味のある何かを立ち上げることです。 より良く生きる為に、日々、考えること、実行すること、その全てが『創造』です。...
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この記事を書いた人

石田 朋子

文芸愛好家&サブカルチャー・ファン。主に70年代~90年代の作品に思い入れがあります。寺山修司の名言『詩を作るより、田を作れ(揶揄)』をモットーに、好きな作品を次代に伝えることを目標にしています。海外在住につき、現代日本とは相容れない所がありますがご容赦ください。
※ 現在、制作巣ごもり中につき、ほとんど更新していません。