祈り

第五編 第四節-2 慈愛あればこその無神 子供の涙はいつ報われるのか?

ぼくは人類一般の苦悩について話すつもりだったんだが、それよりはむしろ子供の苦悩だけに話をかぎろう。

第一に、子供だと、近くからでも、汚らしいのでも、まずい顔をしたのでも、愛することができる(もっともぼくは、まずい顔をした子供なんて絶対にいないような気がするのだがね)。

第二に、ぼくが大人の話をしたくないのは、大人がいやらしい存在で、愛されるに値しないだけでなく、彼らには神罰というものがあるからだ。大人はりんごの実を食べて、善悪を知り、≪神のごとく≫なってしまった。そしていまもりんごの実を食べつづけている。しかし子供たちは何も食べなかったし、いまのところはまだなんの罪もない。

この地上では子供たちも恐ろしい苦しみを味わっているけれど、これは、言うまでもなく、父親の身代わりをつとめているのだ、りんごを食べた父親のかわりに罰を受けているのだ、という人がいる。しかし、こんな考え方は別の世界のもので、この地上に住む人間の心情には理解できないことだ。罪のない者が他人の身代わりに苦しむなんて法があるものか、それもあんなに罪のない子供ががさ! 

実を言うと、ぼくも子供が大好きなんだ。

それに覚えておいてもらいたいが、冷酷で、はげしくって、肉欲の強い人間、カラマーゾフ的な人間は、どうかするとひどく子供好きなものらしいぜ。(303~304P)

このあたりは、なかなか衝撃的。小児性愛をほのめかすような告白で。実際、『好色な人々』なので、そういう傾向もなきにしもあらず。
聖痴愚の『いやなにおいのリザヴェータ』と交わり、スメルジャコノフをもうけたのも、やはりフョードルなのだろう、と。

ちなみにイワンはこう言っている。

「ぼくはもう一度はっきり断言しておくがね、かなり多数の人間には一種特別の性向、つまり幼児虐待の嗜好があるんだ。それも、相手は幼児にかぎられている。それ以外の一般の人間に対しては、この同じ虐待者がむしろ親切で柔和な態度を見せるくらいで、いかにも教養ある、人道的なヨーロッパ人といった感じなのだが、そのくせ子供をいじめるのは大好きだ、いや、その意味では子供好きとさえいえるほどなのさ。つまり、幼い子の身を守るすべも知らないたよりなさ、それが虐待者の心をそそるのだし、どこへ逃げ隠れようもなければ、だれかにすがりようもない幼な児の天使のような信じやすさ、それが加虐者のいまわしい血潮をたぎらせるんだね」(309P)

これは現代の小児性愛者や虐待親にも通じること。19世紀にすでにこのような分析をしていたと。

ともあれ、イワンが無垢な子供の立場に立って、大人社会の理不尽を糾弾するのは興味深い。

大人がどのように理屈を説いて聞かせたところで、まったくその通り。子供には何の関わりもないことだ。

たとえば、大人が子供を道連れに心中する。「一緒に死ぬのは、あなたの為」と。子供は何のことか分からないけど、親の言うことなら、それに従う。

政府が教育方針を変更する。「こうした方が優秀な人材が育つから」。子供は何のことか分からないけれど、国の政策なら従わざるをえない。

それが正義であれ、合理的であれ、子供にはまったくあずかり知らぬことで、そんな大人の都合に巻き込まれる子供はまったく不幸という他ない。

こうした理不尽な不幸に心を痛めればこその、『神の創った国を認めない』。

この後、「トルコ人やチェルスケ人が、スラブ族の一斉蜂起を恐れて、いたるところで暴虐のかぎりをつくしている」と、赤ん坊の顔を至近距離から撃ち抜く話とか、母親の見ている前で乳児を銃剣で突き刺すとか、母親の胎内から胎児をえぐり出すとか、えげつないエピソードが語られ、次の台詞に続く。
                                                            

「もし悪魔が実在するものではなくて、つまり、人間が創ったものだとしたら、人間は自分の姿かたちに似せてそれを創ったわけだね」(305P)

この主張に関連して語られるのが、「信仰心を植え付けられ、喜んで断頭台に上がる死刑囚リシャール」「躾と称して娘を鞭打つ親」「五歳の子供を折檻して、顔に大便をぬりたくり、一晩中、便所に閉じ込める両親」のエピソード。

吐き気をもよおすような実例の連続だが、これらはいずれもロシアで実際に起きた事件。

江川氏の注釈によると、細枝の鞭で殴った話は、銀行家クロネペルグの事件。七歳の女の子を折檻していた銀行家は、法廷に提出された鞭を前に、「節くれだっていると処罰の効果が強まる」と供述した(1876年2月号の『作家の日記』に掲載)

五歳児の顔にうんこを塗りたくって便所に閉じ込めた話は、「ハリコフ在住のブルンスト夫妻が幼女エミリアを虐待した話が、1879年3月、ゴーロス紙に掲載。「うんこを塗る」という表現は、「うんこ」の言語「カール」が語源的に「黒」を意味することから、224ページ下段のイリューシャ少年の「インクを塗られた足」と同じく、カラマーゾフの姓との親近性を案じするものと読める。いずれの場合もキリスト伝説との密接なかかわりのもとでこのイメージが登場することが注目される。なお、ドストフスキーは1879年2月10日、編集者リュービモフ宛の手紙でこの「うんこ」という言葉を換えないように懇願し、「表現をやわらげるわけにはいきません、それはあまりにも、あまりにも悲しいことです!」と強調している。

そして、イワンの義侠心は、神の創った世界への不信に変わっていく。

まだ自分がどんな目に遭わされているかもよくわからないような女の子が、寒い、真っ暗な便所の中で、ちいちゃな拳を固めて張り裂けるような胸を叩いたり、血の出るようないたいけな涙をぽろぽろこぼしながら、どうぞお助けくださいって、≪神ちゃま≫にお祈りをしたりするんだよ。

え、アリョーシャ、おまえはこのばかげた話が理解できるかい、おまえはぼくの心の友で、神に仕える敬虔な修道僧だ、どうしてこんなばかげたことが必要なのか、神によって創造されたのか、おまえには理解できるのかい?

こういうことがなければ、人間は善悪を識別せず、この地上に存在できないなんて言うやつがいる。しかし、こんな代価をはらってまで、くだらない善悪なんか認識する必要がどこにあるんだ? 認識の世界全体をもってきたって、この子供が≪神ちゃま≫のために流した涙ほどの価値もないじゃないか。

ぼくは大人の苦しみについては言わない。大人はりんごを食べてしまったんだから、どうなろうと知ったこっっちゃない、悪魔にでもさらわれるがいいんだ、だがこの子供たちは、子供たちはどうなんだ!」(310P)

次いで、将軍の飼い犬の足に怪我をさせたというだけで、母親の目の前で、犬の大群にかみ殺された子供のエピソードが語られる。

「その将軍はなんでも禁治産か何かになったらしいが、で……やつをどうするね? 銃殺にすべきだろうか? 道徳的勘定を満足させるために重刷に処すべきだろうか? 言って見ろよ、アリョーシャ!」

「銃殺にすべきです!」

「ブラボー! おまえがそう言うとなると、こりゃもう、いや、たいしたお坊さまだよ! してみると、おまえの胸の中にも、ちょっとした悪魔の子供ぐらいはひそんでいるんだね、アリョーシャ・カラマーゾフ君!」 (311P)

思わず「銃殺にすべきです!」と叫んでしまうアリョーシャが可愛い……。

この「銃殺」については、江川氏が次のように注釈する。

トルストイは「アンナ・カレーニナ」第8編で、レーヴィンとコズヌイシェフの二人にセルビア戦争でのトルコ人のスラブ人に対する虐待について論じさせ、そこでレーヴィンに、トルコ人を殺せるかどうかの問題を論じさせている。ここのアリョーシャの言葉は、レーヴィンが「僕自身民衆だが」とことわったうえで、スラヴの同胞に対する迫害に「直接的な勘定はもてない」と述べるくだりを意識しているように思われる。1877年8月の『作家の日記』でドストエフスキーはこの問題について評論している。

いいかい、もしすべての人が、その苦悩によって永久調和をあがなうために苦しまねばならないものだとしても、なんだってそこに子供が引き合いに出されなきゃいけないんだ。

調和をあがなうためにどうして子供たちの苦悩が必要なのか、ぼくにはさっぱり理解できない。

なんだって子供たちまでが材料にされて、だれかの未来の調和のために肥料にさえなけりゃならないんだ? 

ねえ、アリョーシャ、ぼくは何も神を冒涜しているんじゃないよ! 天上のものも、地下のものも、すべてが一つの賛美の声に溶け合って、生きとし生けるもの者が声を合わせて、『主よ、汝は正し、汝の道の開けたりばなり!』と叫ぶとき、この宇宙の震撼がどれほどのものであるか、ぼくにはよくわかっているつもりだ。

そして例の母親が、自分の息子を犬に引き裂かせた加害者と抱き合って、三人が涙ながらに、『主よ、汝は正し』と叫ぶとしたら、そのときにはもう言うまでもなく、認識はその極地をきわめ、一切が説明を見出すことになるだろう。

ところが、ここにはまたコンマが入ってね、ほかでもないそのことが ぼくには認められないんだ。

だからぼくはこの地上にいる間、自分なりの方策を講じようと急いでいるんだ。

子供を殺した加害者と抱き合っている母親を見ながら、このぼくがついみんなと声をそろえて、「主よ、汝は正し!」と叫んでしまうかもしれないということさ、しかしぼくはそのときにさけびたくないんだ。そこで、まだ時間もあるから、ぼくはsの予防措置を講じようと急ぐんだ。だからいまから最高の調査をきっぱりと拒否するんだ。

そんな調和は、あの臭い便所のなかで、ちいさな拳を固めて自分の胸を叩きながら、つぐなわれることのない涙を流して≪神ちゃま≫にお祈りしていた、あのたった一人の責めさいなまれた子供の一滴の涙にさえ値しないよ!

なぜ値しないのかと言えば、あの子供の涙がつぐなわれないままになっているからだ。 (312~313P)

これは当然の感情と思う。誰がどのように神の恵みを説こうと、実際に便所の中で苦しんだ子供の気持ちは救われないからだ。

たとえば、あなた自身、酷い目に遭って、「天国で祝福されるから」と言われたところで、心が救われるだろうか。

殺人者と被害者が互いに抱き合い、許し合うことで、本当に気持ちに決着がつくだろうか。

そんなものは、まやかしであり、酷い苦しみを味わった者には何の慰めにもならない、とイワンは憤っているのである。

しかし何によって、それをつぐなえばいい? そんなことがはたして可能だろうか?

復讐によってつぐなうとでもいうのかい?

しかしそんな復讐がなんになる、迫害者にとっての地獄が何になる、あの子供たちがすでに虐待を受けてしまった以上、いまさら地獄などもってきたって、事態はひとつも変わりやしないんだ。

ぼくは赦したい、抱き合うこともしたい、これ以上人間が苦しむのはもうご免なんだ。もしまた真理をあがなうために必要な苦しみの一定量が定まっているとして、その量を補うために子供たちの苦しみが必要だということなら、ぼくはあらかじめ断言しておくよ、一切の心理もそんな代償には値しないとね。

要するにぼくは、例の母親に、自分の息子を犬に噛みちぎらせたあの加害者と抱き合ってもらいたくないんだよ。彼女が彼を赦すなんてもってのほかだ! もしそうしたいのなら、自分の分だけ赦すがいい、自分の母親としてのかぎりもない苦悩の分だけ、加害者を赦してやるがいい。

しかし八つ裂きにされた子供の苦しみについては、たとえ子供自身が赦すと言っても、彼女には赦す権利がないんだ、加害者を赦すわけにはいかないんだ! だが、もしそうだとしたら、彼らが赦すわけにいかないとしたら、いったいどこに調和があるんだ?

いったいこの世界に赦すことのできる人、赦す権利をもった人がいるものだろうか?

ぼくは調和なんて欲しくない、人類を愛するからこそ欲しくないんだ。

ぼくはむしろあがなわれることなく終わった苦しみとともにとどまりたい。あがなわれなかったぼくの苦しみ、癒やされなかったぼくの憎しみを、たとえぼくが間違っていようと、いつまでも抱えていたいんだ。

それに調和ってやつが、えらく高価に値踏みされているじゃないか。そんな高い入場料を払ってまで入るのはこっちのふところ勘定に合わないよ。

だからぼくは自分の入場券をいそいでお返しするんだ。

いや、もしぼくが恥を知る人間であるなら、それをできるかぎり早く返すのが義務なんだよ。

ぼくは神を認めないんじゃない、アリョーシャ。ぼくはただ入場券をつつしんで神さまにお返しするだけなんだ。(313-314P)

ここで語られる『調和』は、私たちが一般に認識する和解や協調とは異なる。

神の元での赦しであり、慈愛だ。

しかしながら、そんなものが約束されたところで、本当に子供が救われるだろうか?

子供を殺された母親の悲しみが癒えるだろうか?

イワンの疑念と憤りは、現代人の私たち(非キリスト教圏の)にとって、すこぶる真っ当な感覚だ。
実際、遺族に対して、「あなたも、あなたの子供も、神の元では救われるから、あなたを傷つけた者も赦しなさい」などと言えるものではない。

だからこそ、イワンは、「たとえ間違っていようと、いつまでも抱えていたい」という。神の理屈で悲痛を紛らわすよりは、現実を生きる人間としての理性と感情を大事にしたい、ということだろう。神の理屈でいえば、どう考えても理不尽な犯罪さえ許さねばならないからだ。

だから、決してイワンは拗ねた無神論者ではないし、義に逆らった背徳者でもない。

ただ、人間として当たり前の感情から、神の許しだの、天国の幸福だの、馬鹿馬鹿しい、というのが本音なのだ。

江川氏の注釈では、有名な台詞「ぼくは神を認めないんじゃない、アリョーシャ。ぼくはただ入場券をつつしんで神さまにお返しするだけなんだ」の意味は次のようになっている。

自分の入場券を……お返しする
シラーの1784年の哲学的叙情詩『断念 Resination』が起源とみなされている。しかし、この原詩は、ドミートリエフ、ダニエレフスキー、フェルテレフら、ロシアの訳詩者によってそれぞれかなり意訳されており、おそらくドストエフスキーが参照したと見られるダニレフスキ訳に「地上の楽園の入場券を、開封せぬままにお返しする」の表現が見られる。

ところで、日本でも凄惨な幼児の虐待が後を絶たない。

カラマーゾフの時代と決定的に異なるのは、現代の日本および先進国は政治的解決が可能、ということだ。ちなみにカラマーゾフの時代は帝政ロシア、社会主義革命以前である。

ある意味、イワンの神への不信は、政治や司法に何の期待もできなかった時代の虚無感であり、だからこそ、イワンのような当時のロシアの若者(あるいは知的階級)が、宗教ではなく、政治に変革を求めた動機も頷ける。祈っても無駄、政治体制や法律を変えない限り、こうした不幸はなくならないと。その極端な形が社会主義革命だったのだろう。

ドストエフスキーも、もう少し長生きしていたら、イワンにもっと納得いく回答を与えることができたかもしれない。

あるいはそれを引き継いだのが、アリョーシャ=皇帝暗殺説なのかもしれないが。

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