カインとアベル

カインとアベルのたとえ話 ~父親を見殺しにするのか

カラマーゾフの兄弟(江川卓訳) 第五編 第三節 『兄弟相識る』より

論理以前に愛するんです。絶対に論理以前に。の続き。

イワンは生への渇望を胸に「ヨーロッパに行きたい」と熱っぽく語るが、アリョーシャは、父とドミートリィの確執を憂い、イワンが早々と去ってしまうことに強い不安を感じている。それ以前に、ゾシマ長老から家族に関する不吉な予兆について聞かされたのも、心に大きな影を落としていた。

「兄さんはほんとうにそんなに急に出発するんですか?」

「うん」

「じゃ、ドミートリィとお父さんはどうなるんです? あの決着はどうつくんです?」

「またぞろ おまえのおせっかい焼きがはじまったな! だけどぼくになんの関わりがあるんだい? ぼくがドミートリィ兄貴の番人だとでも言うのかい?」 (295P)

<中略>

「実を言うとね、ぼくがきょうここで食事をしたのは、ただ親父といっしょに食事をしたくないというそれだけの理由からだったんだ、それほどまで親父がいやでたまらなくなったのさ。親父一人だったら、とっくにここから飛び出してるよ。だのにおまえは、ぼくが出発するからって、どうしてそんなに気をもむんだい。ぼくら二人には、出発までにまだたっぷり時間があるんだぜ。永遠の時間が、不死があるんだ!

「あす出発するというのに、何が永遠なんです?」

「そんなことはぼくら二人には関わりのないことじゃないか?」イワンは笑い出した。「だってぼくら自身のことを話し合うためなら、まだ十分に余裕があるもの、ぼくらがここへ来たのは、自分のことを話すためだったんだろう? どうしてそんな怪訝な顔をするんだ? さあ、答えてくれよ、ぼくら二人、ここへ来たのはなんのためだい?」 (297P)

『番人』という表現は、作中にもあるように、旧約聖書『創世記』に登場する、人類最初の殺人『カインとアベル』に基づくものだ。

エデンの園を追われたアダムとエヴァはカインとアベルという兄弟をもうける。ある時、ヤハウェ(神)に対し、カインは野畑の収穫物を、アベルは羊の初子を捧げたが、ヤハウェはアベルの捧げ物だけを受け取り、カインの捧げ物には見向きもしなかった。それに嫉妬したカインはアベルを殺害してしまう。ヤハウェに「アベルはどこへ行ったのか」と尋ねられた時、カインが「知りません。わたしは弟の見張り役なのですか」と嘘をついたことから、イワンも自身とドミートリィになぞらえ、「ぼくがドミートリィ兄貴の番人だとでも言うのかい?」と答えている。

謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書)』でも指摘されているが、後々、この発言は(自分が父親殺しを黙認した)という意味で、アリョーシャの「あなたのせいじゃありません」に繋がっていく。

この後、イワン – カチェリーナ – ドミートリィ – (フョードル親父)の恋愛関係について語られるが、うぶなアリョーシャが必死に話についていこうとしている描写が可愛い。

どう考えても、スマートに決着がつきそうにないのを知っていながら、イワンは明日の朝にも出立しようとしているのが気にかかる。

アリョーシャの中にも、「イワンは父を見殺しにするつもりではないか……」という不安があっただろう。

だから、余計で、終盤の「あなたじゃありません」が説得力をもつ。

Caino uccide Abele - Assereto
Gioacchino Assereto – Braunschweig, Herzog Anton Ulrich-Museum

料亭でのほんの一刻を惜しんで、連中がどんな議論をはじめると思う? 全世界的な問題、お定まりの、神はありや? 不死はありや? なんだ。神を信じてない連中は、やれ社会主義だ、やれ無政府主義だ、新しい方式にもとづく全人類の改革だ、としゃべりだす。要するに、どっちにしろ同じことで、相変わらずの例の問題になってしまうのさ、ただ取っかかる一端が別なだけでね。 (298P)

こうして無数の、きわめて独創的な才能をもったロシアの小僧っ子どもが、現代のわが国において永遠の問題ばかり論じている、つまり、こういうことになっているんだ。ちがうかい?」

「ええ、ほんとうのロシア人にとっては、神はありや、不死はありや、という問題、あるいはいま兄さんの行った、別の一端からの問題は、もちろん第一の問題だし、まずそこからということでしょうね、いや当然、そうあるべきですよ」 (299P)

イワンは明言はしないが、『毒蛇が毒蛇を食らうだけ』の台詞に象徴されるように、心の半分では金と恋愛がらみの醜態にうんざりし、ドミートリィも父親も両方消えてくれ……というのが本音だったろう。

それでも、今まで居続けたのは、家族の情であり、次兄としての責任感でもある。

だからこそ、父親の死後、良心の呵責から気が触れたようになってしまうのだ。

ここで抽象的に語られる、「連中がどんな議論をはじめると思う?」の部分は、昨今のネット議論に喩えると分かりやすい。

右だの、左だの、許せんだのと、方々で議論がなされるが、何か一つでも万人が納得いくような答え――大勢が希望のもてるような指針を見出したことがあっただろうか。

「どっちにしろ同じこと」というのは、本当にその通りで、社会が右に突き進もうと、左に舵を切ろうと、突き当たる壁は常に同じだ。そこを決着しないと、永久に同じ迷路をぐるぐる回り続ける。

イワンとアリョーシャの場合、彼らの住まう社会の根幹を成すのはキリスト教であり、良くも悪くもそれが人間の幸福感を決定づける。

ここで重要なのは、「イエス・キリストが正しいか否か」ではなく、この絶対的な規範を自分の中でどう消化するかだ。

アリョーシャが「まずそこから」と言うのも、定義が違えば、そこから先がすべて違ってくるから。

広告
>海洋小説『曙光』MORGENROOD

海洋小説『曙光』MORGENROOD

ニムロディウムという架空の金属元素を中心に、鉱業、海底鉱物資源、深海調査、海洋情報ネットワーク、建築&デザインなどをテーマに描く人間ドラマ。水深3000メートルに眠るニムロディウムの採掘は世界を変えるのか。生の哲学を中心に海洋社会に生きる人々の願いと攻防を描きます。Google Driveにて無料サンプルPDFも配布中。

CTR IMG