数学

神は人間が考え出したもの ~地上的な頭脳で考える

カラマーゾフの兄弟(江川卓訳) 第五編 第三節 『兄弟相識る』より

カインとアベルのたとえ話 ~父親を見殺しにするのかの続き。

きらきらと生の渇望を語り、ヨーロッパ行きを決めるイワンに対して、アリョーシャは不安を覚える。長兄ドミートリィによる父親殺しの予兆を感じるからだ。

だが、イワンは「僕は兄貴の番人じゃない」と一笑に付し、予定を変えるつもりはない。

そんな二人の会話は、神の存在をめぐる議論へと突き進む。

「それよりどうだい。何からはじめる? おまえから決めてくれよ。――神からにするかい? 神は存在するや否や? からかい」

「どちらでも好きなほうからはじめてください。別の一端からでもいいですよ。だけど兄さんはきのう父さんのところで、神はないって言い切ったじゃありませんか」

「きのう親父のところで食事をしながらあんなことを言ったのは、わざとおまえを焚きつけるつもりだったのさ、案の定、おまえは目をきらきらさせていたものな。でもいまは、おまえとじっくり話し合ってもいいつもりになっているし、これは非常にまじめな気持ちで言うんだ。ぼくはね、おまえと打ちとけたいんだよ。アリョーシャ、ぼくには友だちがないから、ひとつ試してみたいのさ。それに、びっくりするかもしれないが、ぼくだって神を認めるかもしれないんだぜ。

<中略>

いいかい、十八世紀のころ、ある罪深い爺さんがいて、もし神がいないとすれば、それを考え出す必要がある、つまり S’il n’exisitani pas Dieu, il faudrait l’mventer (ヴォルテールの言葉)とのたまわったんだ。事実、人間は神を考えだしたよ。だが、ここで不思議でもあり、驚嘆にも値するのは、神が実際に存在するとういことじゃなくて、そういう考え、つまり神はどうしても必要だという考えが、人間みたに野蛮で性悪な動物の頭によくまあ忍び込めたということなんだ

この考えはそれほど神聖で、それほど感動的で、それほどに聡明で、人間の名誉になるほどのものなんだよ。ぼく自身のことを言えば、人間が神を創ったのか、それとも神が人間を創ったのかという問題は、とうにもう考えないことに決めてしまったがね。 (299P)

<中略>

もし神が存在して、ほんとうにこの地球を創造したのだとすれば、われわれにはっきりわかっているように、神はこの地球をユークリッド幾何学にもとづいて創造し、人間の知能をも、三次元の空間しか理解できないように創造したということになるんだ。

ところが幾何学者や哲学者の中には、全宇宙が、というより、もっと広く言えば――全存在が、たんにユークリッド幾何学にだけもとづいて創造されたということに疑いを抱く人間が昔からいたし、いまでもまだいるんだ、それももっとすぐれた学者たちの中にさえいるんだ。

なかには、ユークリッドによれば この地上では絶対に交わることのない二本の平行線も、どこか無限のかなたでは交わるかもしれないといった大胆な空想をする者もいるのさ。

そこでね、アリョーシャ、ぼくはこう決めてしまったんだよ。この程度のことさえ理解できないというのに、どうしてぼくに神の問題が究められようとね」 (300P)

ユークリッド幾何学は、Wikiによると、「ユークリッド幾何学は、いうなれば直感的に納得できる空間の在り方に基づく幾何学である。直線はどこまでも伸ばせるはずであるし、平面は本来はどこまでも果てのないものが想像できるし、どこまでも平らな面があるはずであった。また、平行線はどこまでも平行に伸びることが想定された。それは、現実世界の在り方として、当然そうであると言う前提であった。ユークリッド幾何学は永くにわたって「唯一の幾何学」であったが、『原論』の第5公準(平行線公準)に対する疑問から始まった研究の流れは19世紀に至ってついに非ユークリッド幾何学を生んだ」

ユークリッド幾何学

わかったような、わからんような、私理数系は完全にアウトなので、もう無理です。^^;

ちなみに、江川訳の注釈によると、「大胆な空想をする者」とは……

ロシアの数学者ロバチェフスキー(1792ー1856)は非ユークリッド幾何学の考え方を1826年に発表したが、それが一般に認められるようになったのは彼の死後、60年代になってからだ。ドストエフスキーはすでに工兵士官学校時代にロバチェフスキーの理論を知っていた可能性がある。

いろんな意味で、19世紀というのは、古来の神話的な世界から、科学と工業技術に裏打ちされた近代社会への転換期であり、学者も農民も政治家も、あらゆる人が価値観の変容を迫られた時代と思う。

新聞と百科事典しか読んだことのない年寄り世帯にインターネットがやって来て、「今はこうやってGoogleで一発検索ですよ!」「物事を記憶する必要性などないんです! だってスマホのアプリが脳みそ代わりだから!」というようなもの。

未だにそんな考え(やり方)なんですか? と変化を迫られたら、誰だって混乱するし、自分が今までしてきた努力は何だったのだろう……という気分になる。

新時代に希望を抱く層もあれば、絶望する層もあり、19世紀半ばというのは、人々の野心や不満が口元まで鬱積した時代だったのだろう。

ぼくはおとなしく白状するよ。ぼくにはそんな問題を解決する能力はまったくない。ぼくにさずかっているのはユークリッド的、地上的な頭脳でね、この世のことに属さない問題なんか、どだい解けるわけもないんだ

こういうのはもともと三次元の観念しか持てないように創られた人間の頭脳にはてんから不向きな問題なんだ。そういうわけだから、僕は神を認める。それもたんに喜んでそうするばかりじゃない、さらに進んで、われわれにはまったくはかりがたい神の英知も、神の目的も認めるんだ。人間の生活の秩序も意義も信ずる、やがてわれわれ全員がひとつに融合するとかいうあの永久調和も信ずる。また全宇宙がひそれをめざし、それ自体が≪神とともにあり≫、それ自体がすなわち神であるという言葉(ロゴスキ)も信じるんだ。そのほかそういったたぐいのことはいくら出て来ても全部信ずるよ。この点についちゃよくもいろいろな言葉ができているじゃないか。どうだい、ぼくもけっこう殊勝な道を歩んでいるようだろう――

ところが、驚くなかれ、最終的な結論としてはだね、ぼくはこの神の世界を認めないんだ。 (300~301P)

「三次元の観念しか持てないように創られた人間の頭脳には」=現実的、と置き換えてみよう。

大雑把に解釈して、

ユークリッド=平行線はどこまでいっても、平行線 = 平面上の幾何学

ユークリッド幾何学

非ユークリッド=角度があれば、平行線も遠いどこかで交わる = 曲面上の幾何学

非ユークリッド幾何学

たとえば、地球上、あなたのノートの上で、二本の平行線を引いたら、それは永遠に交わらないように見えるだろう。

しかし、地球は丸いのだから、一見、平行に見えても、微妙に角度がついており、冥王星の彼方まで平行線を延長すれば、どこかで交わる……という考え方だ。

ある意味、beyond imagination 、「見えないものも見る力」、「現実を超越した想像力」みたいに感じる。

しかし、そこまで想像力を働かせていては、現実の物事など、到底進まない。

『平行線は平行線』として捉え、処理する能力なり、感性がなければ、しまいに世の中から逸脱して、ノイローゼになってしまうだろう。

そんな訳で、イワンは「ぼくにさずかっているのはユークリッド的、地上的な頭脳でね、この世のことに属さない問題なんか、どだい解けるわけもないんだ」と自覚する。

その上で、地上を統括する超越的な概念――永久不変の真理であり、正義としての『神』を認めるけども、それが必ずしも人間や社会を救うわけではない――というのが、イワンのスタンスだ。

実際、神を信じることによって、人々はどんな災難を被っているか(善良であるが為の殉教や貧苦)。

とりわけ、無知な子供の苦しみはどうなるのか(大人のように理屈で割り切ることができない)――というのが、これに続くイワンの無神論であり、大審問官だ。

最終的な結論としてはだね、ぼくはこの神の世界を認めないんだ。むろん、この世界が現に存在していることぐらい、ぼくだって知っている、だがそれでもぼくにはそれがまったく容認できないんだ。ここはぜひともわかってほしいところだけれど、ぼくは神を認めないんじゃないぜ。ぼくには神の創った世界、いわゆる神の世界ってやつが認められないんだ、認める気になれないんだ。ちょっと断っておくとね、ぼくはそれこそ赤ん坊みたいに、こんなことも確信しているんだ。

人間の苦悩はいつかは癒やされてあとかたもなくなるにちがいない、人間がいさかい合う腹立たしい喜劇の一切も、やがてはみじめな蜃気楼のように消え去って、あれは、原子の一粒みたいに非力でちっぽけな、ユークリッド的人間の頭脳がでっちあげた、ぶざまな虚構でしかなかったということになる。

そして、やがて来るべきこの世の週末、永久調査の瞬間には、何かしらたとえようもなく価値のゆたかさは、万人の心の渇仰をみたし、一切の瞋恚(怒り恨むこと)をしずめ、人間が犯したあらゆる悪業と、人間が流し合ったすべての血とをつぐなってなおあまりあるどころか、人間界に生じた一切の事態にたんに赦しを与えるだけじゃない。さらにすすんでそれを正当化することさえできるほどのものなんだ、

ところがだよ、仮にこうしたことがすべてそのとおりになり、そのとおりに実現するとしても、ぼくはそれを認めないんだ、認めたいとも思わないんだ!

よしんば二本の平行線が交わって、ぼくがこの目でそれを見届けたとしても、それを目にしたとたん、確かに交わったぞ、と口に出して言うとしても、それでもぼくは認めないんだ。

これがぼくの本質だよ、アリョーシャ。 (301P)

つまり、『神』という概念の価値は認めるけども、それが支配する世界=善行を積めば、天国に迎えられる……といった”掟”の部分ですね。

その理由は、次のパート、『子供の苦悩だけに話をかぎろう』の部分で語られます。

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