疎外する家族と厄介者の息子 グレーゴル・ザムザは本当に虫になったのか フランツ・カフカの傑作『変身』

ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。彼は鎧のように堅い背を下にして、あおむけに横たわっていた。頭をすこし持ちあげると、アーチのようにふくらんだ褐色の腹が見える。腹の上には横に幾本かの筋がついていて、筋の部分はくぼんでいる。腹のふくらんでいるところにかかっている布団はいまにもずり落ちそうになっていた。たくさんの足が彼の目の前に頼りなげにぴくぴく動いていた。胴体の大きさにくらべて、足はひどく細かった。「これはいったいどうしたことだ」と彼は思った。

フランツ・カフカ 『変身

サイコホラーか、幻想譚の幕開けかと思いきや、ここから淡々と自己分析が始まるのがフランツ・カフカの傑作『変身』だ。

グレーゴル・ザムザは虫になったにもかかわらず、ベッドの中で、勤め先のことを案じ、汽車の時間を心配し、勤め人たる自身の暮らしを振り返ったりする。

慌てることもなければ、絶望することもなく、意外とあっさりこの事実を受け入れ、部屋の中をごそごそ動き回るだけだ。

奇異な反応は、ザムザの家族も同様である。

一応、妹は茫然自失とし、母親も嘆き悲しむが、必死に助けを求めることもなければ、息子を医者に診せるわけでもなく、ぶつくさ文句を言いながらも、虫になった息子と今まで通り暮らしていく。

前から虫みたいな存在だったのか、息子が虫になったところで家族の人生には何の関わりもないのか、虫に変身した事実より、この家族の方がよほど奇怪で、意味不明だ。結末に至っては、まったく哀れというより他ない。息子が命を落としたというのに、何なのだ、この夕陽のガンマンのような爽やかさは。

何の予備知識もなく読み始めて、ジャン・バルジャンかラスコーリニコフのような救済の物語を期待していたらとんでもない。

フランツ・カフカの『変身』は、とことんリアルで、同情も救済も一切排した本音の世界だ。

設定こそ非現実的だが、戸惑い、立ち尽くし、時に憎悪さえ向ける人間像は、酷薄というよりも、「これぞ人間」という印象である。

目の前の、奇怪で、不快で、恥ずかしい事象に対し、愛と勇気でもって立ち向かう登場人間は一人としてない。

父親も、妹も、多少は息子思いの母親も、しまいには疲れ果て、虫の消滅を願うようになる。

それは愛の不在というよりも、平凡な小市民の日常だ。

違和や悶着を好まず、無駄な労力は極力避けて、安穏と生きてゆく。

虫となった息子に救いの手を差し伸べるほど、想像力もなければ、余裕もない、といったところ。

両親が老いて弱っている理由もあるかもしれないが、実際、似たようなことが身の回りに起きたとして、誰が超人的な努力と情愛でもって、この異常な事態を乗り越えることができるだろうか?

グレーゴル・ザムザはなぜ虫になったのか、本作には説明もなければ、それを匂わせる記述もない。

もしかしたら、本人が虫になったと夢想しているだけで、本当は人間のまま、家族から邪険に扱われる現実に対して、そのような幻に逃避しただけかもしれない。

いずれにせよ、家族の平凡な日常からはみ出た男は、日常の権威にリンゴを投げつけられ、あっさりこの世から消え去る。

なぜ家族の胸は痛まないのか。

それが本音だからである。

『変身』の読み所

朝目ざめた時、虫になっているのに気づいたグレーゴル・ザムザ。ベッドから出ようにも出られず、人間の言葉を話すこともできない。
が、慌てるどころか、仕事をどうしよう、汽車の時間をどうしよう、挙げ句、支配人が様子を見にやって来ても、助けを求めるどころか、必死に遅刻の弁明をする、哀しきサラリーマン。

「七時十五分までには、なにがなんでも寝床を出ていなくちゃならない。それまでにはどのみち、おれのことを聞きに店からだれかやってくるだろう。店を開けるのは七時前なんだから」こうして彼は体ぜんたいを完全に平均にわきのほうへ揺すりながらずらして、寝台から出る作業にとりかかった。

<中略>

そのとき、玄関のベルが鳴った。「店からだれかやってきたな」と思うと、体が硬直するような気がした。ところが足どもはいっそうせわしなくぱたぱた動きはじめた。

<中略>

なんと支配人であった。いったいどうしておれだけが、ちょっとさぼったぐらいでたちまちひどい嫌疑をかけられるような商会に勤めるという因果なまわりあわせになったのだろう。一体全体サラリーマンというサラリーマンはだれも彼もやくざなごろつきだというのか。

<中略>

支配人さん、どうか親たちにがみがみおっしゃらないでください。いまいろいろとわたしをお責めになったけれど、みんな見当はずれです。だってだれにもまだそういうことは言われなかったんですから。このあいだわたしがお送りしておいた注文書をまだ見ていらっしゃらないんじゃないでしょうか。とにかく八時の汽車で発ちます。二、三時間休んだんで元気になりました。どうか、支配人さん、おひきとりください。すぐ仕事にとりかかりますから。それからすみませんが、どうか社長にそのことをよろしくお伝えください。お願いします」

サラリーマンの通勤組は日常の塊。毎日、同じ電車に乗り、同じ道を通って、同じ席に着き、似たような業務を繰り返す。

地震がきても、台風がきても、親が死んでも、自分自身が病気になっても、朝目ざめたら、まず一番に、通勤の心配をし、段取りを脳裏に巡らせ、周囲への言い訳を考える。

グレーゴルも虫になったにもかかわらず、仕事に出掛けようとしたり、サラリーマン人生を振り返ったり。

よく「日常に埋没する」というけれど、それは忙しさのせいというより、変化の無さだ。

いつもと同じ起床時間、同じ電車、同じ道順、同じ業務、辛く感じても、それ以外を求めようとはしない。

変身した本人が、仕事に行けなかったり、周囲に迷惑をかけたり、何よりも変化を恐れるというのも滑稽。

(父親は)足を踏みならし踏みならし、ステッキと新聞紙とを振りふりしてグレーゴルをもとの部屋に追いもどそうとしはじめた。いくら頼んでもむだだったし、頼む言葉は理解されもしなかった。
<中略>
父親は情け容赦なく、まるで野蛮人みたいにしっしっと言いながらグレーゴルを追い立てようとする。だがグレーゴルはまだあとしざりの練習をぜんぜんしていなかっし、また事実それは非常に緩慢にしか行われなかった。方向転換がやれさえしたら、苦もなくもとの部屋にもどることになったのであろうが、向きを変えるのに手間どって父親をかっとさせたくはなかった。
<中略>
そういうわけで、たえず父親のほうをおそるおそるうかがい見ながら、彼はできるだけ迅速に、といっても実際にはひどくのろのろと方向転換をしはじめた。父親にも息子の健気な意志がそれと察せられたらしく、こんどは息子のしぐさの妨げをせず、逆に必要に応じてステッキの先で遠くのほうからあれこれと指図してくれた。しっしっという知ったの声さえなかったらどんなによかったであろう。その声を聞くとグレーゴルは実際おろおろしてしまうのであった。

本作では父親が重要な意味を持つ。カフカ自身の父親ともいわれる、グレーゴルの父親は、息子を哀れむどころか、毒虫のように、しっしっと追い立て、救いの手を差し伸べようともしない。自身の父親を表したカフカの言葉に『愛情はよく権力の顔をしているものです』というものがあるけれど、グレーゴルの父親も、息子の庇護者というよりは一家の権力者であり、父親の一撃が致命傷となって、グレーゴルは息絶えてしまう。

本作に描かれている父子関係はぞっとするほどドライだが、それが不思議と納得するのは、人間あるいは家族のもう一つの実像を描いているからだろう。

ドアの透き間から見ると、茶の間にはもうガス燈がともっていた。いつもならこの時刻には父親が一段と声を張り上げて夕刊を、母親や、ときには妹に読んで聞かせているのだが、いまは物音ひとつしない。してみると、妹がいつも話してくれたり手紙に書いてよこしたりしたこの新聞朗読の行事は、現在ではもうまったく廃止されているのかもしれない。
それにしても、家の中に人がいないというわけはあるまいに、あたりがじつにひっそり閑としている。
「なんていう静かな暮らしぶりなんだろう」
グレーゴルはひとりごちた。
そして眼前の闇を見つめながら、両親や妹にこういうけっこうな住まいの中でこういう暮らしぶりをさせることのできる自分もまんざらじゃないなと考えた。
しかしこの安楽、この幸福、この満足のいっさいがいまや恐ろしい最後をとげることになるとしたらどうであろうか。
いや、そんなことを思ってくよくよするよりは、と考えたグレーゴルは、それよりも体でも動かしてみようというわけで、這って部屋の中を行ったり来たりした。

長い夜がふけていくあいだに、そばのドアが一度、それから向い合せの川のドアが一度、ほんの少々ばかり開かれて、すぐにまた閉じられた。 だれかが部屋にはいる用事があったのであろうが、やはり心配と不安が先にたってはいりかねたのであろう。そこでグレーゴルは茶の間に通ずるドアのわきにぴったりと身を寄せて、できることなら、はいり悩んでいる訪問者をなんとかして部屋に入れるか、それができないのならせめて相手がだれであるかを知ろうとした。ところがドアはもうそれきり開かれなかった。待ってみたがむだだった。ドアというドアに鍵がかかっていた今日の早朝はだれも彼もグレーゴルの部屋にはいろうとしたのに、いまはだれもやってこない。<中略> そしていまではどの鍵も外側からさしこまれていた。

家族から疎外されるグレーゴル。家族全員から無視され、家の中がしんと静まりかえっているのに、それを安楽に感じるグレーゴルは、異常なのか、孤独なのか。自身の家族を内側からではなく、傍観者のように見つめる視点がいい。虫になり、家族からも疎外されたグレーゴルが嘆きもせず、助けも求めず、家の中の静けさに満足を覚えるのも、彼には元から居場所など無かったのかもしれない。

周りの近い人間と絆を結びそこなった人間にとって、疎外と断絶こそ、心の安らぎなのだ。

グレーゴルは寝椅子の縁まで首を伸ばしきって妹を眺めた。ミルクを飲まずに置いてあるのに気がつくだろうか。それも腹が減っていないからじゃないんだが。もっと口に合うような別のものでも持ってきてくれたのかしら。
<中略>
けれども妹はけげんな顔つきですこしも減っていない牛乳の鉢をすぐに見つけだした。鉢のまわりに少々牛乳がこぼれているだけである。彼女はすぐ鉢を取り上げた。ただし素手ではなくて雑巾でである。そして部屋の外へ持ちさった。

兄の器を素手ではなく雑巾で持ち運ぶ妹の様子から、人間関係が崩壊していく様が目に浮かぶ。

妹自身、最終場面で告白するが、どんな善良な人間も、お荷物みたいな家族の世話を喜んで引き受けるほどの余裕はない。

このあたりの描写は、看病疲れで疲弊する家族の様子を上手に映し出している。

グレーゴルはときどき善意の言葉、あるいは善意と解される言葉を小耳にはさむことができるようになった。グレーゴルの食が進んだときは、妹は「あら、今日はおいしかったとみえるわ」と言い、反対の場合には「またちっとも食べてないわ」と悲しそうに言うのがつねであった。ところでそういう反対の場合がしだいにひんぱんにくりかえされるようになってきたのである。

看護人がいらいらする様がよく分かる。

一方、生みの親である母の態度はどうかといえば、虫になった息子からひたすら逃げ回り、目を背け、正面から対峙しようとしない。恐ろしさもあれば、後ろめたさもある。母の情愛はあっても、人間的な疑問や戸惑いを、愛の意思の力で乗り越えることができない人なのだろう。そして、そういう母親は決して少なくない。父親=夫が子どもに暴力を振るっているのに止めることができない母親。父と子が喧嘩しても上手く取りなすことができず、いっそう事態を深刻にする。

だんだん荒んでいくグレーゴルの部屋の家具をどうするか相談する為に、妹が母の手を引いてグレーゴルの部屋に入ってくる場面。

いっそこれは(家具)やっぱりこの部屋に置いておいたほうがよくはないのかね、だいいち重すぎるし。<中略>それにね、家具を片づけてしまってグレーゴルがどう思うだろうか、あたしたちには皆目見当がつかないじゃないの。かえって以前のままにしておいたほうがいいんじゃないの。グレーゴルの身にしてみれば。家具を片づけてしまうとお部屋ががらんとして、あたしにはなんだかたまらない気持ちがするのさ。なにしろ長いことこの部屋に寝起きしてきたんだから、一切合切片づけてしまうと、なんだか見捨てられてしまったような気にならないともかぎらないからねえ

<中略>

家具を片づけたりすれば、あたしたちがあの子がよくなることをすっかりあきらめてしまって、まるであたしたちがもうあの子のことをかもうとしないんだということをはっきりと言ってしまうようなことになるじゃないの。あたしはこう考えるんですよ、部屋の模様はむかしとそっくりそのままにしておいたほうが、またグレーゴルが人間にもどったときにこの部屋がちっとも変わっていないのを見て、それだけ容易にそのあいだのことが忘れられようというものじゃあるまいかねえ」

しかし、母のこうした気遣いは、虫になった兄の世話に疲弊する妹の翻意により却下され、グレーゴルの家具は妹と母の手によってすっかり運び出される。

だが、作業の途中、ついつい虫になった息子の姿を目にしてしまった母親は「助けてえ、助けてえ」と叫びながら寝椅子の上に倒れ込んでしまう。

その顛末を知った父親はどうしたかといえば、有名な場面、虫になった息子に林檎を投げつけ、致命傷を与えるのである。

本作は始めから暗いトーンで描かれ、いかにも東欧の旧市街の陰鬱とした夕暮れの感が漂っているが、なぜか、この林檎だけは、非常な鮮烈な色彩をもって胸に迫る。

喩えるなら、灰色のキャンバスの中で、この林檎だけが紅いのだ。

このリンゴをキリスト教の原罪に喩える解釈もあるそうだが、罪というよりは本音の赤。息子を滅ぼす権威の赤であり、生々しい感情の赤でもある。

しかし、勢いよく投げつけられたのではなく、本作では「やんわりと投げられたらしい」と説明されている。

本気で息子を殺そうとしたのではなく、軽く威嚇するつもりが、息子には致命傷になった、ということだろう。

こうした行き違いは、変身に限った話ではない。親はやんわり叱ったつもりが、子どもには一生の心の傷になった、みたいなエピソードは事欠かない。自覚があれ、無自覚であれ、親から発せられたものは、たとえそれがやんわりと投げられた林檎であっても、子どもには重い一撃となる。受け損なったグレーゴルは、この一撃が原因で死に至るのだが、死んだのは肉体というより、家族の一員としての心……といったところ。

一月以上もグレーゴルを苦しめたこの重傷は――だれもあえてとりのけようとする者がいなかったので、あの林檎は、この事件の目に見える記念品として肉の中にめりこんだままになっていた――現在のいたましくもおぞましい姿かたちにもかかわらず、グレーゴルが家族の一員であり、家族の一員は敵みたいにとりあつかうべきではなく、逆に嫌悪の情を胸にたたみ込んで忍ぶ、ただもう忍ぶということが家族の義務の命ずるところなのだということを父親にさえ半生させたように見うけられた。

一つの家族が見かけ上、上手くやっていくには、一人の犠牲が必要……という話があるけれど、それは一人に限った話でなく、それぞれが、それぞれに忍ぶことでしか成り立たないのかもしれない。

「嫌悪の情を胸にたたみ込んで忍ぶ、ただもう忍ぶということが家族の義務の命ずるところ」と、”忍ぶ”を二度も連呼しているところがいい。

そして、ついに家族は結論する。

「放り出しちゃうのよ」と妹が言った。「それ意外にどうしようもないわ、お父さん。これがお兄さんのグレーゴルだなんていつまでも考えていらっしゃるからいけないのよ。あたしたちがいつまでもそんなふうに信じ込んできたってことが、本当はあたしたちの不幸だったんだわ」

<中略>
「さて」とグレーゴルは考えて、あたりの暗闇を見回した。自分がもうまったく動けなくなっているのがほどなくわかった。それを格別不思議だとも思わなかった。むしろこのほそぼそとした足でここまで(自分の部屋)まで這ってこられたというのが不自然なくらいであった。
<中略>
柔らかい埃にすっかり覆いかくされた背中の腐った林檎やその周囲の縁勝負の存在もすでにほとんどそれとは感ぜられなかった。感動と愛情とをもって家の人たちのことを思いかえす。自分が消えてなくならなければならないということにたいする彼自身の意見は、妹の似たような意見よりもひょっとするともっともっと強いものだったのだ。

半ば自殺ともとれる、グレーゴルの諦念。彼にはわかりきった結末だったのかもしれない。助けを求めても助けは得られず、ただ黙って消えゆくしかなかった運命。

そして、この後に続く家族の悟りが素晴らしい。まるで夕陽のガンマンのようなエンディング。世界文学史上に残る、見事な結末です。

読みたい方だけどうぞ。

『変身』のエンディングを読む
三人の職業はどれもこれも――これまでたがいにたずねあったりしたことはまったくなかったのであるが――話しあってみればまったく恵まれたものであったし、ことに将来ははなはだ有望であったからだ。<中略>
ザムザ負債は、しだいに生きいきとして行く娘の様子を見て、娘がこの日頃顔色をわるくしたほどの心配苦労にもかかわらず、美しい豊麗な女に成長しているのにふたりはほとんど同時に気がついた。ザムザ夫妻はしだいに無口になりながら、また、ほとんど無意識に目と目でうなずきあいながら、さあそろそろこの娘にも手ごろなお婿さんを捜してやらねばなるまいと考えた。降りる場所に来た。ザムザ嬢が真っ先に立ちあがって若々しい手足をぐっと伸ばした。その様子は、ザムザ夫妻の目には彼らの新しい夢とよき意図の確証のように映った。

悪夢を見ていたのは、グレーゴルか、家族の方か。

最後まで淡々と人間の正直な内面を描いているのが非常に印象深い。

世に厄介払いという言葉があるが、厄介する側より、厄介を払う側の方が、なぜか悪人にされるのは、わたしたちが本能的に罪を恐れ、人目を恐れ、自分自身を恐れているからだろう。厄介を払う側より、厄介する側の方がはるかに悪い、という話になれば、善徳など成り立たないから。

グレーゴルの身の上は確かに悲劇にだが、本作を読んで、彼の為に心から涙を流す読者も少数だろう。

なぜかしら、この結末に納得し、爽やかな読後感を覚えるのは――多少の後味の悪さは残るとしても――この物語は「本当のこと」を描いているからに違いない。

訳者・高橋義孝のあとがきより

『変身』は、名作に違いないが、名作というよりは『傑作』と呼ぶにふさわしいものだ。

名作というのは、ドストエフスキーの『罪と罰』やニーチェの『ツァラトゥストラ』みたいに、魂にズシンと響く酩酊感を伴うのに対し、傑作は、喩えるなら、ジェームズ・キャメロンの『ターミネーター』やリドリー・スコットの『ブレードランナー』みたいに、「いや~、久々にいいもの見せてもらいました。ごっつあんデス!」と感服する要素に満ちている。物語のどきどき、はらはらは言うに呼ばず、ひねり、演出、センス、設定、全てにおいて、見るものの価値観を覆すような仕掛けに満ちていて、最後はひたすら平伏するしかないというアレ。

カフカの『変身』も、とにかくエンディングが素晴らしい。

そこで抱き合って泣くのはスティーブン・スピルバーグの映画。

でも、カフカは違う。

この人たち、一体、何なの? 

疑問符しか付かない登場人物ばかりなのに、そのどれもが現実的で、行動に納得いく。

実際、厄介者の息子が虫になったら、こんな感じだろうな、と思ってしまう。

この世は親子が抱き合って互いに絆を確かめ合うジュラシックパークではなく、その日その日を生きるのに必死な小市民の集まりなのだ。

英雄も聖人も存在しない、雑事と日銭が全ての世界で、自我や慈愛を求めてどうなる?

大きな世界から見れば、我々、一個人など、手足の生えた虫に過ぎない。

たとえ、その一つ一つに、かけがえのない人生があったとしても、誰の記憶にも残らないのが、この世の現実なのだ。

スピルバーグ的な美しいオチに偽善を感じる人は、カフカを強くおすすめする。――多分、何の救いにもならないけど。

カフカは1883年7月3日プラハに生まれ、1924年6月3日、ウィーン近郊のキールリングで41歳で没した。表面は平凡な市民生活のうちに一生を過ごした。<中略> 彼の文学の特色は「徹底的に写実的な手法によって純粋に象徴的なものを表現する」点にありとせられ、彼において『ヨーロッパのニヒリズムは致命的な自己意識に到達した』(マルティーニ)といわれる。「その種において完全なものは、その種を超越する」(ゲーテ)からか、カフカの作品にはニヒリズムを超えるものがある。

その作品中、ことに有名な、この『変身』の「巨大な褐色の虫」は何の象徴であろうか。答は無数にあるようだ。そしてどの答えも答えらしくは見えぬ。けだし文学とは、それ自身がすでに答えなのであるから。

しかし、カフカの作品を読んで、「だから生きても空しい」とかいうのも、たいがいセンチメンタルだよね。

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ギャラリー

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