批評における傾向と対策について・一億総評論家時代の幸福術『バレエワンダーランド(1994年)』より

批評における傾向と対策について・一億総評論家時代の幸福術『バレエワンダーランド(1994年)』より

1994年、『ぴあ』より刊行された『バレエワンダーランド(1994年)』のムック本に興味深いコラムが掲載されていたので、ご紹介。

ちなみに私が購入した1994年の初版本は表紙イラストが萩尾望都先生でした。
ぴあ バレエワンダーランド 

 ぴあバレエワンダーランド (1994年) (ペーパーバック)
 著者  渡辺健太
 定価  ¥ 670
 中古 9点 & 新品  ¥ 670 から
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目次からの抜粋で以下の内容です。 インタビュー (横尾忠則・・・4) (ミテキ・クドー・・・6) (松本隆・・・8) (ワールド・バレエ・マップ・・・10) (バレエ・ヒストリー・・・12) バレエは一人じゃ踊れない (スター繚乱・・・16) (群雄割拠のバレエ団&キーパーソン・・・62) そして、幕が上がる (演目紹介・・・102) カーテン・コールの、その後で (有名ダンサーのプロフィール・・・154) (先物買いはひそかな楽しみ、ツウは学校公演をマークせよ!・・・156) (もっと知りたい!バレエ入門書14選・・・158) (バレエ・スケジュール1994-1996年・・・160) (バレエ用語集・・・164) (LDリスト・・・166) (ホール・マップ・・・168) 以上です。

↓ 現行のバレエワンダーランド

 バレエワンダーランド (ぴあムック) (ムック)
 著者  
 定価  ¥ 2,000
 中古 11点 & 新品  ¥ 436 から
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批評における傾向と対策

まずは口上。

芸術には批評がつきもの。バレエの批評も新聞や専門誌に掲載されている「全くその通り!」という意見から「本当にこれ、私の見たあの舞台?」と首をひねってしまうものまで、さまざまな見解が入り乱れている。
自分と全く違う意見でも、読んだ以上はなんとか役に立てたいもの。
批評をかしこく利用するための読み方をお教えします。

制作者と批評家は、太古の昔から仲が悪いと相場が決まっている。ただし、このけんか、批評家の方がいつも分が悪い。

「文句があるなら、自分で作れ」

こうなると批評家は一応グーの音も出ないからだ。でも、負けずに言う。「批評とは君たちつくる人に負けず劣らず、ひとつの制作なのだ」と。

たしかに人がつくったものにウンタラカンタラ批評家は言うのだが、それは制作者がたとえば自然の素材を使って自分の意図を表現するように、批評では<既成のもの>を、素材にする、という違いに過ぎないのだ。

”文句があるなら、自分で作れ”という反論は卑怯ですよね。

相手の能力がそこには無いのを知って、わざと追い込むのですから。

こういう逃げ場を塞ぐタイプの反論は、反論にもなってない、ただの言いがかりです。

”文句があるなら、自分で作れ”と言い出せば、アートに限らず、ビジネスも教育も、あらゆる分野で思考停止します。

どんな優れた作り手でも、これを口にする人は、相手の論点を反らして、完全に逃げるタイプですよね。

「お前みたいな三流に何が解る」「私のアートは素人には理解できない」の方が可愛げがあります。

第一の結論

批評することは、制作することと同じ、芸術的(文学的)行為である。

しかしだからといって、制作者と批評家がまったく同一座標に立つと思ってはいけない。作者には敬意を払うこと、そして、戦略的にも、批評させてもらっているという感謝の念と、どこかうしろめたい思いを、むしろ忘れずに大切にしておくこと。

”どこかうしろめたい思い”というのは言い得て妙。

批評側に、いかにセンスや知識や能力があっても、オリジナルを創出する作り手には敵いません。

批評家は、いわば他人さまの作品の上に足場を作るわけですから、「ネタ(飯の種)を与えて下さって、ありがとうございます」という気持ちは忘れずにいたい。たとえ、一つ星のクソ映画であっても。

でもやっぱり批評する方だって大変なのだ。なぜならその批評内容によって「大きなことを言ってるわりには、結局あの程度の読みしかできないわけ」と、おのれの力量が、白日の下にさらされて試されてしまうことになるのだから。

そこで第二の結論

批評することは、生きることである。

少し大袈裟すぎるんじゃないかと笑われるかもしれないが、しかし批評とはやはり全人的な生死をかけた行為だと思う。いや、それくらいの覚悟がなければ、そもそもが制作者に対して、失礼でしょ。

それ、Amazonで、ドヤ顔で、しょーもない書き込みしているレビュアーに言って下さい (^_^)

まあ、ああいうのは批評ではなく、感想ですけどね。

でも、たまに素晴らしいレビューも散見できるので、Amazonは楽しい。

レビュアーにも一つ星とか五つ星とか付ける機能があればいいのにね。(そしたら、ちっとは、自分の高慢が身にしみるのではないか)

いきなり第三の結論

<正しい批評>というものは、ない

まして、制作者がいちばん正当な批評家であるなどという幻想は捨て去るべきである。来日した某バレエ団の評価について、”若々しく歯切れよくさわやかだ”と言えば、かたや音をためてドラマティック・リリコをじっくりと表現できないから、単にテンポアップしているだけという反論もおこる。

所詮、批評は好きか嫌いかの趣味判断を根底にしているので、絶対的な結論なんて出そうとすることがそもそもおかしいのである

極論すれば、99人が白、1人だけが黒と言ったって、なぜに黒いと思うのかを納得させてしまえるなら、それはそれで一向にかまわないのだということになる。

昨今は、スポンサーとか有名人への忖度も欠かせないので、批評というより、提灯記事に成り下がっているものが多いですよね。

そしてまた、権威に弱い大衆がそれを鵜呑みにするという……。

おまけに、昨今は「なぜに黒いと思うのか」を主張しても、1人の側であれば、袋叩きにされるのが現状です。

少数派が口をつぐむようになれば、いよいよ業界の崩壊も近いです(^_^)

第四の結論

批評のおもしろさとは、結局、<読み>の切り口のおもしろさにある

書かれている内容の結論そのものよりも、そこへもっていく過程にこそ真骨頂があると。

したがって文章のレトリカルなうまさや展開の妙味で読ませる文章技術も大いに関係して、内容空疎でも、いや、もっと言ってしまえば、とりわけ外国者の場合には、作品を実際に観ていなくても、他人の書いた批評を巧みに使いさえすれば、ごまかし方如何によって、それない(それ以上)の格好はつくのだといえる

だからこそ、目が利くかどうかは、批評することの原点とせねばならない(第五の結論)

所詮批評とは趣味判断であるから、たで食う虫も好き好きでよろしいが、本物か偽物かは見分けられる鑑識眼を持たなくてはならない。もちろん何が本物かの判断基準も、絶対的ではない。ならば結局のところ、すべては批評家自身が、自分の好みを自分の中で指定できているかどうかにかかっているのだ。その上で「あれは嫌いだけど、すごいね」と言えるようになるのだから。

「文章のレトリカルなうまさ」「オサレな横文字」で読み手を煙に巻く人は結構います。
作品の真髄にまったく触れず、どこかで聞きかじったような監督論、演出論に終始する批評は少なくないですし、作り手やスポンサーはもちろん、炎上を恐れて、読み手にまで忖度しているレビューを観ると、げんなりしますものね。

どこから見ても駄作なのに、「これって、駄作だよね」と言いたくても言えないプロの批評業界に成り代わり、Amazonレビューに怒濤の一つ星が付くのも解るような気がします(中には言いがかりみたいなのもあるけども)。

ある意味、昨今の視聴者や読者は、プロの批評などまったく当てにしておらず、素人が思いのままに書き込むAmazonレビューや読書メーターなどに、より信用を置いているのかもしれません。

だからこそ、組織的な五つ星レビュー、もしくはアンチレビューのアルバイトが成立するのでしょう。

いまや作品の吟味と並行して、「やらせレビュー」も見抜かなければならない、視聴者や読者にとっては非常にハードルの高い時代です。

そういう意味で、淀川長治氏の映画評論に無邪気に頷けた頃は、幸せだったのかもしれないですね。(淀川さんのヨイショは忖度というより、映画愛ですけども)

さて、舞踊は、誰もが容易にその作品に接して鑑賞できるものではない。ここに芸術批評の中での舞踊批評がおかれた特殊性(さらいにいえば舞踏ジャンルそのものの特異性)が生じる。しかも言葉によらない分、伝達がむずかしい。作品を観たという事実だけで(作品を観ていない者への責任は本来ならばかえって重くなるはずなのに)、それを特権かすることもできるのだ。

そこで第六の結論

舞踊批評には時に、記録データとして、できるだけ客観的な作品記述も要求されることになる(これは作品に接した読み手にとっては、えてしておもしろくはないけれども)。

でも作品記述もなく、そのくせその感動の根拠は曖昧なままに、いかに自分が感動したかを、とうとうと述べられるよりは、真摯な読者の精神衛生上はよろしいだろう。

このコラムが書かれたのは1994年、ITが普及する以前なので、「記録データとしての作品記述」が重要だったと思うけど、今はWikiや公式サイト、個人ブログなど、様々な媒体で作品の見どころや制作者のプロフィールが詳細に記されているので、記録的な意味合いは薄れているかもしれません。

また、YouTubeでもコンサートや舞台の映像がどんどんUPされており、一期一会のライブの意義もネット以前とは大きく違っていると感じます。
今やライブは、”後から、何度でも見返すことのできるもの”になっていますから。

現代の作品記述の役割は、「ネットでいつでも調べられるもの」から、「玄人筋しか知り得ない、よりディープな情報」に変化しています。

現代の読者を満足させるには、情報の濃度よりも、”いかに自分が感動したかを、とうとうと述べられる”方に比重が移っているかもしれません。

バレエワンダーランド

一億総批評家時代の幸福術

近年は一億総評論家時代、公演のあったその日のうちに感想がネットを駆け巡り、Amazonの星の数がカスタマーの印象を大きく左右するから、作り手にとっても、プロの批評家にとっても、やりにくいかもしれない。

ただでさえ真意を理解されるのは難しいのに、見当違いの意見や感想でも、瞬く間にネットで広がってしまう今、表現も批評も遠慮して、観客におもねるようなものしか作れなくなっているのが現状だろう。その結果、ますます面白みに欠き、観客の不満が増大するという悪循環。「誰もが自由に意見を言える」は、アートの質を高めるどころか、発信者自身が注目を集める為のツールになり、もはや作り手の名誉や意志などどうでもいい、「意見を言う俺様に従え」という雰囲気になってないでしょうか。いやいや、大事なのは作り手なのに、なんで批評する俺様の方が偉そうなのか、あるいは、作り手になりたくてもなれない、やっかみなのかもしれませんね。「俺様も本気を出せば、これくらい作れる」という歪んだ自負心の現れとか。

一億総評論家時代、作り手も、観客も、幸せに生き残るには、より強い自我と流されない勇気、高度な知識とセンスが必要なのはいうまでもないですが、一番効果的なのは「見ざる、聞かざる、言わざる」の沈黙の行ではないかと思ったりもします。巷の情報は全てシャットアウトし、作品と己、一対一でとことん向き合うことです。面白いものを見たり聞いたりすると、すぐに誰かに話したい、あるいは他の人はどんな風に感じているのか、あれこれ探ってみたくなりますが、果たして大勢が支持している意見が正しいかといえば、眉唾な話もたくさんありますしね。それよりも、自分が感じたこと、考えたことを、一度、沈黙の中でしっかり熟成し、確信がもてた時点で初めて文章化、あるいは意思表示する。この『待ち』の姿勢によって、知力も精神力もずいぶん鍛えられると思います。なぜって、人は一度吐き出してしまえば、その時点で満足してしまい、それ以上、自省も伸展もしなくなるからです。

『レミーのおいしいレストラン』で料理評論家のアントン・イーゴも言っていましたが、「厳しい批評は、書く側にとっても、読む側にとっても楽しいものだ」というのは、本当にその通りだと思います。まして、安全な場所から、立派な人や有名な人をドヤ顔でこき下ろすのは爽快でしょう。またそうした書き込みを目にして、ほくそ笑んでいる人が大勢いるのも事実です。

だが、その末に、どんな満足があるのか。

せいぜい、一時、溜飲を下げるだけ。

ふと我に返れば、一篇の詩さえ作り出せない自分に空しくなるだけだと思います。

そう考えれば、どんな意見や感想も、作り手へのリスペクトなくして、真の満足はあり得ません。たとえ手厳しい意見にしても、そこに愛があるのと、無いのでは大違いです。心ないレビューは、作り手を貶めているようで、逆にその人自身を惨めにしているのではないでしょうか。

愛なき評論はアーティストを殺します。

誰もが気軽に意見や感想を述べられる時代だからこそ、作品といっそう深く静かに向かい合う姿勢が大切だと思います。

 

最終更新日: 2018年9月2日  初回公開日:2018.06.24