お手製ショコラの思い出(ベルサイユのばらに寄せて)

 私が小学生の頃、周囲で、ベルばらを熱心に読んでいる子は非常に稀であった。彼女たちの愛読書と言えば、「チッチとサリー」みたいな、ほのぼの恋愛マンガか、「キャンディ・キャンディ」のような、少女が主人公の物語が大半で、歴史ものや大人の恋愛ものを読み耽るような、ませた子供は限られていた。
 ゆえに、「ベルばらを読み込める」という点で、私や姉は、他の同い年の子より、ちょっぴり鼻高々だったし、「レジャンス様式」とか「オダリスク風」とか、他の少女はとうてい知り得ないような横文字を知っているというだけで、自分たちの背が一気に伸びたような気分であった。
 そんなベルばらには、日本の日常生活では決してお目にかかれないような、未知のアイテムが数多く登場した。
「朗読係」「アントルメ」「ローブ」「ダマスク織り」「カルタの会」……。
 一体、これは何なのかしら。
 想像をふくらませては、ああでもない、こうでもないと、姉妹で語り合った。
 わけても、私たち姉妹が、一番興味をひかれたのが「ショコラ」だ。
 ジェローデルの顔にかかった液体の色と、名前の感じから、多分、ココアみたいな飲み物だという想像はついたが、きっとベルばらに出てくるものだから、庶民には味わえないような高級なものに違いない――と、私たちは考えていた。
 そんなある日、どこで調べたのか、姉が言った。
「ショコラというのは、チョコレートを溶かしたものなんや。フランス人は毎日飲んでるらしいで」
 ほんなら、一度、作ってみようということで、市販の板チョコを買ってきて、お互いのカップに半分ずつ割り入れ、カンカンに沸いたやかんのお湯を注いで、スプーンでぐるぐるかき回した。
 カレー・ルーのように、どろりとしただけだったが、なるほど、ココアのようにいい香りがして、いかにもオスカル様が三時に頂きそうな感じである。
「わぁ、ショコラや、ショコラが出来た」
 マンガに出てきたように、カップをお皿にのせて、二人で喜びいさんで飲んだ。
 ところが、変な味だった。興奮は一気に醒めた。
「こんなん、飲まれへん」
 私がぼやくと、
「それはな、チョコレートの量が足りひんからや。本物のショコラは、もっとたくさんのチョコレートを使うんや」
 なるほど、と思った。
 以来、私は、ショコラというのは、大量のチョコレートをお湯で溶かして作るものだと思い込んでいたし、あの時、アンドレが運んでいたのも、アンドレが、台所で、どろどろに溶かして作ったのだと考えていた。
 そんなものを顔にかけられたら、大変な火傷をするはずなのに、ハンカチで拭う程度で済んだのは、ジャルジェ家がものすごい大邸宅で、台所からオスカルの部屋まで歩いて10分ぐらいかかるからだ――というのが、当時の私の結論だったのである。
 それから二十数年後、念願かなってパリを訪れた時、カフェで本物のショコラを味わう機会に恵まれた。
 それはいたって普通のココアだった。
 チョコレートのかけらは、どこにも見当たらなかった。
 未知というのはいいものだ。
 わからないから行動するし、想像もたくましくなる。
 もし最初から何もかもわかっていたら、人間はどこにも踏み込めなくなってしまうだろう。
 今は、ベルばらのインターネット・コンテンツもたくさんあって、その一つ一つに注釈が付いていたり、クリック一つで何でも検索できるような、恵まれた読書環境が整っている。それはそれで大変有り難いと思うし、今の若い読者さんは、私たちが子供の頃より、うんと博識で、ベルサイユを身近なものに感じていらっしゃるのだろうな、と想像する。
 だが一方で、ページをめくれば、そこはめくるめく別世界――ショコラだの、アントルメだの、なんだかわからないけど、ものすごくお洒落で、ゴージャスなものが満ちあふれていて、「パリって、どんな町なのかしら。ベルサイユ宮殿は、何色をしているのかな」なんて、想像たくましくする楽しみも味わっていらっしゃるかしら、とも思う。
 1ドル=360円の時代は、フランスそのものが遠かった。
 「ハワイに行く」というだけで、周囲の者はびっくり仰天したものだ。
 それだけに、未知なるフランスを舞台にしたベルばらが、子供心にどれほどファンタスティックで刺激的だったことか。
 それが高じて、ツヴァイク、ルソー、モーツアルト、ナポレオンなどの書物に手を伸ばした少女も少なくないはずだ。
 オスカルの食卓に並ぶ「ゼリー」といえば、冷蔵庫で固めて作る、粉のフルーツ・ゼリーしか思いつかず、「毎食、おやつが付いて、ええなあ。当時は、冷蔵庫なんて無いやろうに、井戸で冷やしてたんやろか」と不思議がっていた私も、今はそれが何だか知っている。
 ベルばらが開いてくれた知的好奇心の旅は、今も限りない。 

この投稿は2007年~2008年にかけて”優月まり”のペンネームで『ベルばらKidsぷらざ』に連載していた時の未提出の原稿です。
『ベルばらKidsぷらざ 東欧ベルばら漫談』の一覧はこちら
 

QUOTE CARD

  • どんな高邁な理想も、言葉だけでは人は動かせない。 身をもって示して初めて、理想が理想としての意味をもつ。 その後、彼は死ぬまで父を忘れず、その生き様を指針にするわけだが、愛とは何かと問われたら、慈しむだけが全てではない。身をもって生き様を示す勇気も至上のものだろう。 誰でも犠牲は怖い。  自分だけ馬鹿正直をして、損したくない気持ちは皆同じだ。  だが、その結果、一番側で見ている子供はどうなるか、いわずもがなだろう。  言行の伴わない親を持つほど不幸なことはない。  たとえ現世で馬鹿正直と言われても、本物の勇気、本物の優しさ、本物の気高さを間近に見ることができた子供は幸いである。 どんな高邁な理想も、言葉だけでは人は動かせない。 身をもって示して初めて、理想が理想としての意味をもつ。...
  • 「創造的」というのは詩を書いたり、絵を描いたり、という意味ではありません。無の平原から意味のある何かを立ち上げることです。 より良く生きる為に、日々、考えること、実行すること、その全てが『創造』です。 どんなに小さくても、昨日よりは今日、今日よりは明日、少しずつでも歩みを進め、善きものを積み上げることを「創造的な生き方」と言います。 「創造的」というのは詩を書いたり、絵を描いたり、という意味ではありません。無の平原から意味のある何かを立ち上げることです。 より良く生きる為に、日々、考えること、実行すること、その全てが『創造』です。...
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この記事を書いた人

石田 朋子

文芸愛好家&サブカルチャー・ファン。主に70年代~90年代の作品に思い入れがあります。寺山修司の名言『詩を作るより、田を作れ(揶揄)』をモットーに、好きな作品を次代に伝えることを目標にしています。海外在住につき、現代日本とは相容れない所がありますがご容赦ください。
※ 現在、制作巣ごもり中につき、ほとんど更新していません。