CATEGORY ドストエフスキー

『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などドストエフスキーに関する話題

人間の孤立の時代と偉大な思想を絶やさぬ試み

なぜなら今世紀においては万人が個別に分裂して、だれもが自分の穴に閉じこもろうとし、だれもが他人から遠ざかって、自分の身も、自分の所有物も他から隠そうとし、あげくは自分が他の人々に背を向けられ、逆に自分も他の人々に背を向ける結果になっているからです。ゾシマ長老の説教は、ドストエフスキーから全人類に向けた遺言でもある。

俗界で生きよ ~何が人間を強くするのか~                             

死の床にあるゾシマ長老は、心から慕う若いアリョーシャに「家族のもとへは行ったのだな、兄には会ったかの? あすも行くのじゃ、あとのことはほうり出しても、いそぐがよい。ことによると、まだいまなら恐ろしいことが起るのを防げるかもしれぬ。わたしは機能、あの人の大きな未来の苦しみの前に頭を下げたじゃ」と将来カラマーゾフ家で起きるであろう、不吉な出来事を予言する。

真理は人間を自由にするはずだった → 自惚れから悪魔の側へ

「人間たちは、かつてのいかなるときにもまして、自分たちが完全に自由であると信じ切っておるのだ。そのくせ彼らは自分からすすんでその自由をわしらに捧げ、うやうやしくわしらの足もとに献呈してしまっておるのだがな」ここでいう『自由』というのは、「束縛されない」ではなく、「何でも好きなことができる選択の自由」の意味だ。即ち『原罪』の延長でもある。

無垢な涙の上に万人の楽園を築けるか? 

アリョーヤの視点は、当事国から一歩離れて、調停する側にある。調停者はジャッジはしない。A国もB国も、それぞれに主張があり、どちらが正しいかジャッジを持ちこむ限り、問題は永遠に解決しないからだ。そうではなく、それぞれの言い分、それぞれの間違いを受け入れつつ、平和に導く。イエス・キリストは、そうした高次的な存在であり、当事国の理屈で解決しないものを平定する為に正義を説いている。

第五編 第四節-2 慈愛あればこその無神 子供の涙はいつ報われるのか?

ある意味、イワンの神への不信は、政治や司法に何の期待もできなかった時代の虚無感であり、だからこそ、イワンのような当時のロシアの若者(あるいは知的階級)が、宗教ではなく、政治に変革を求めた動機も頷ける。祈っても無駄、政治体制や法律を変えない限り、こうした不幸はなくならないと。その極端な形が社会主義革命だったのだろう。

第五編 第4節-1 人間は近づきすぎると愛せない

『ぼくはこの神の世界を認めないんだ』というイワン。長兄のドミートリィに『墓石(無口)』と呼ばれ、一見、心の冷たそうなイワンだが、アリョーシャに対しては兄弟らしい情を示し、聞き上手なアリョーシャを相手に、素直に自身の考えや葛藤を語る。 「ぼくは身近な人間をどうして愛することができるのか、どうやってもわ […]

神は人間が考え出したもの ~地上的な頭脳で考える

カラマーゾフの兄弟(江川卓訳) 第五編 第三節 『兄弟相識る』より カインとアベルのたとえ話 ~父親を見殺しにするのかの続き。 きらきらと生の渇望を語り、ヨーロッパ行きを決めるイワンに対して、アリョーシャは不安を覚える。長兄ドミートリィによる父親殺しの予兆を感じるからだ。 だが、イワンは「僕は兄貴の […]

論理以前に愛するんです。絶対に論理以前に。

論理以前に愛するという言葉は、松本零士の「鉄郎、生きろ。理屈は後から考えればいい」に通じるものがある。何の為に生きるのか、存在することに理由はあるのか、あれこれ考える以前に、まずは生きるべき、というアリョーシャの提言はまったく正しい。”先に理屈あり”では、理由の為に生きることになる。理由の為に生きるようになれば、理屈通りにいかなくなった時、必ず挫折する。

ぼくの若さがすべてに打ち勝つよ ~ どんな幻滅にも、人生に対するどんな嫌悪感にも 

むっつりした印象のイワンが、途端に生き生きした青年に感じられる。イワンも、根本的には、生の肯定者であり、愛の人でもある。ただあまりにも理不尽な世の中に幻滅して、「神も仏もあるかい!」という気持ちになったのがニヒリズムの走り。もとから虚無的な人間にニヒルなど感じようがない。むしろ愛深き人こそ、反動で虚無に走る。

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