プラハ 都市

アイデアの原点は情報収集、体験、生きる姿勢 安藤忠雄の『連戦連敗』より

建築に限らず、小説でも、映画でも、絵画でも、魅力的な作品には、常に『周辺の要素』があるものだ。

周辺の要素というのは、作品に直結するもの以外の、副次的なテーマや背景だ。

たとえば、ギャグ漫画の最高峰『パタリロ』には、「竹宮恵子」「萩尾望都」「宝塚歌劇」「古典文学」「懐かしのアニメ」といった、パタリロとは直接無関係な作品の旨みがちりばめられているし(究極の二次創作といわれる所以)、ハリウッド映画でも、「キリスト教」「美術史」「東洋哲学」など、様々な知識や雑学が取り入れられ、物語の面白さを倍増している。単に、馬鹿力のヒーローが敵を壊滅するだけでなく、「この処刑法、まるでキリストの磔刑じゃん → つまり、被害者は、万民のキリスト的存在だったということね」「この構図、どこから見てもダヴィンチの『最後の晩餐』じゃん → つまり、この中に裏切り者がいるというわけね」と、二重、三重に張り巡らされたミーニングがあり、それがいっそう観客の知的好奇心を刺激するわけだ。

建築もそれと同じで、「建物をデザインする」ことに終始し、その他の美術にも、史学にも、社会学にも、何の関心もないようでは、ただの奇抜な箱でしかない。
また、体験にまさる説得力はなく、同じ「スペイン風のデザイン」でも、実際にスペインに行って、このようなデザインが生まれた自然環境や歴史的背景、現地の暮らしぶりを知っているのと、本やネットでききかじった情報だけを頼りにアイデアを繋ぎ合わせるのでは大違いだろう。

安藤氏が学生に対して訓諭されているのも、まさにその点で、勉強というのはただ単に己の専門分野だけ知っておればいい……というのではないことを、改めて考えさせられる。

結局、発想する力、構想力とは、建築にリアリティをもって臨めるか否か、この一点に大きく関わっているのだと思います。情報メディアを駆使してどれほど膨大なデータを集めようとも、ただ一回の実体験にはかないません。

<中略>

彼らにしても、敷地を見に行きたければ、自分の時間を使って行くことはできるし、計画についても、要綱に書かれている以上のことを知るのに全く手立てがないわけではありません。建築を考えるきっかけを与えるとはいえ、私にはそれほど懇切丁寧にお膳立てをするほどスタッフを甘やかすつもりはない。あとは彼らの意識次第だと突き放して考えています。

どんな分野も、怠けながら身につく知識も技術もないだろう。
あるいは、「怠け」というより、その重要性に気がつかないのかもしれない。

たとえば、ハリウッド映画は、スリラーでも、ヒューマンドラマでも、キリスト教をモチーフにしたものが多い。が、そうしたモチーフが使われていることに気付くのも、見る側がキリスト教の知識を持っているからで、何も知らなければ、単なるアクションでしかない。その他の作品を見ても、それが何を意味するのか、永久に理解できないままだろう。

知っているから、作り手の意図を理解できる。意図を理解できるから、作り手のセンスや創意に脱帽する。そして、その驚きが自分のものになる。

そうした知的な体験が無いと、周辺要素の必要性に気付かないし、勉強の仕方も分からない。

「勉強」というものは、クロスワード・パズルのように広がっていくものだと思う。

たとえば、ミケランジェロの絵に感銘を受ければ、同時代の巨匠、ダ・ヴィンチやラファエロにも関心が向くし、彼らのことを知れば、当時のイタリア史にも興味が湧く。そこからローマ史に遡ることもあれば、イタリア映画の巨匠ルキノ・ヴィスコンティやベルナルド・ベルトリッチに広がることもあり、好奇心は尽きない。

それらは本業と何の関係もないようだが、スティーブ・ジョブズが大学で学んだカリグラフが、後にMacの美しいフォントに繋がったように、いつ、何が、どんな形で結晶するかは本人にも予測できないものだ。だから、面白いし、何でもがむしゃらに勉強してみようという気になるのである。これは役に立つ、これは役に立たない、ということが、事前に目に見えれば、無駄なことは誰もやろうとしないから。

建築は、結局その作り手である建築家を超え得ないものだといわれます。芸術性や倫理性を問われつつも、なお社会的産物としての側面をもつ建築に、それでも理念を掲げ、自らの意志を介入させていくのが建築家の仕事なのですから、それは当然のことかもしれません。

<中略>

私はアイディアの原点、発想の核となる部分は、やはり建築家として社会的に認知される以前の時間をどう過ごしたかに関わってくるものだと思っています。その後どれほどに激しく飛躍し、展開したとしても、この根幹となるそれぞれの目指す方向性は変わらないし、また最終的には必ずそこに戻ってしまうものではないか。

『リアリティをもって臨む』というのは、少し抽象的な表現だが、建築の場合、絵画や小説と違って、アイデアが図面の中から飛び出し、実際に、その場に、建つわけだから、いかにアイデアに優れても、机上の理論は完璧でも、実物として周囲と調和しなければ、何の意味もない。また、実作が完成するまで、実験やシミュレーションもできないわけだから、設計の段階でどこまで『現実』を想定できるかが重要なポイントといえる。

それぞれに異なる道を歩んできた彼らにもある共通点がありました。それは建築を志しつつも決して専門分野にとらわれず、さまざまな領域に興味をもち、さまざまな活動に積極的にチャレンジしてきたということです。たとえばゲーリーの講義の大半はアーティストとの関わりとアートの話題に終始していましたけれども、それがあったからこそ、現在の彼独自の建築的スタンスが確立されたのだということを忘れてはなりません。皆あらゆることに貪欲で挑戦的なのです。

私も講師の話は、本業より無駄話の方がより深く心に残っています。

建築をつくる、とは非常に長い時間を要するものです。大体一つのプロジェクトについて構想から完成に至るまでに5年、10年かかるのが普通です。規模が大きく、複雑な状況での仕事ならば、20年という場合もめずらしくありません。だから、計画段階で建築雑誌などに載り、「新しい建築の搭乗」ともてはやされたものが、数年後、実現の暁には時流から取り残された「つまらない建築」となっていることが少なくない。メディア上の、実体をもたないイメージの段階で<建築>が消費され尽くしてしまう、それが現在の私たちが置かれている状況なのです。

情報化や高速化に慣れきった現代人がもっとも苦手にするのは、何十年という長いスパンで物事を考える……という点ではないだろうか。
「今日作って、明日結果を求める」のような姿勢は建築に限ったことではなく、アート、ビジネス、政治、果ては人間の生き方や信頼関係まで、「今日作って、明日結果を求める」、結果が芳しくなければ、すぐに絶望して、やる気をなくす――というのは、全てに共通していえることだ。

あるいは、明日結果を求められるので、どんどん量産し、どんどん変化しなければならない。
その為、一つの仕事に長い時間をかけることができず、その場の思い付きで、ぱっぱと処理してしまう。
薄っぺらいものしか作れなくても、気にせず、どんどん次にいく。そうしなければ生きていけないし、立ち止まって考える余裕などないからだ。

だが、その結果はどうだろう。社会的、あるいは防災的に、取り返しのつかない建物もたくさん存在するのではないだろうか。

それでも自分が生き延びればいい、と。

建築って、そういうものなのか?

安藤氏の指摘は理想論かもしれないけれど、現実がどうあれ、『理想に向かう』という姿勢は大事だろう。現実はこんなものと開き直れば、そこで何もかも終わってしまうからだ。今すぐ変わるのは無理でも、心の片隅に留めるだけでも、物の見方は違う。

社会的にも精神的にも<消費されないもの>を作る。

それが本当の意味で自身の生き甲斐にもなるのではないだろうか。

だから建築家として生きていこうとするならば、まず自分というものがしっかり確立されていなければならない。デザイン感覚、知力も無論必要な能力ですが、それ以前の、人間としての芯の強さ、即ちいかに生きるかという、その生き方が、何より重要なのです。

流されない。恐れない。諦めない。妥協しない。

生きる姿勢が、そのまま作品にも現れる。

建築に限らず、音楽でも、絵画でも、みな同じです。

しかし最近の学生を見ていると、知識ばかりが先行していて、実際に体験して身体で確かめていくという実体験の過程がすっぽりと抜け落ちているような印象を受けます。コンピュータの普及のあおりか、建築を完全にコンセプチュアルなものとして、現実的な部分をそっくり欠落させたまま考える傾向が目立つのです。

設計課題で具体的な敷地が設定されているにも関わらず、現地を確認しないままスタディを開始している学生がいるのも驚きです。一体何を手がかりに建築のイメージを組み立てていくつもりなのか。

私の事務所でも、美術館を計画するに当たって、そこにどんな作品が収蔵されようとしているのかという点に関心すら示さず、収められる美術作品を写真でさえも見たこともないという若いスタッフが平気で図面を描いているという由々しき事態が起こっています。生活がわからなければ住宅が考えられないように、建築はその使われ方を知らなければ発想のしようがないはずです。

今はGoogle Mapも、Google Earthもあるから……近い将来、VRツールを応用した3D体験も可能になるから……わざわざ現地に行かなくても、自宅で、PC一台で、情報収集はできる! というメリットはあるかもしれないけれど、でも、現地の実際を知りもしないで設計された建物とか、ちょっと怖すぎないかと思う。
敷地自体は安全でも、海に近すぎるとか、住宅密集地にあるとか、周辺の土砂がボロボロとか、現地に行かないと実感できないこともたくさんあるだろう。地図検索や測量データなどで、科学的な情報は得られるても、自分で見て、触って、確信したことには敵わないものだ。
PCや家電のネット通販でも、メーカーの公式サイトを見れば、いくらでも詳細な情報を得られるが、実際に売り場に行って、製品に触れた感触はまったくイメージと異なることもある。建築もそれと同じで、データはデータ、実際、その地に暮らす感覚までは掴めないと思うのだ。
立ち寄った先で、住人や関係者から災害などに関する生々しい話を聞くこともあるだろうし。

『生活がわからなければ住宅が考えられない』というのは、本当にその通り。

仮に、庶民が宮殿の設計を任されても、何がどんな風に必要なのか、見当も付かないだろう。王侯貴族の暮らしなど無縁だから。

文献を調べればいろいろ分かるかもしれないが、そこに書いてある以上のことは、やはり自分が体験してみないことには分からない。

想像の域をでないものは、作品の上で、説得力をもたない。

最近の建築を見ると、どうも質感といったものが取り除かれてしまったように感じます。私はこれまで、少なくとも手や足など人間の身体が直接触れる部分には常に生命のある自然材を使用してきました。木や石やコンクリートのようにそれぞれの質感をもった実体のあるものが建築を構成する重要な素材なのであって、身体を通してこそ本質的に建築を認識できると考えているからです。その材料を自分のものとし、使いこなすためには、まず「こんなものができないだろうか」という強い思いとともに、その物理的特性に対する理解はもちろんのこと、その歴史や事例を含め、さまざまなことに意識を及ぼさなければなりません。

何より大きいのは、その建築にかける建築家の思いの強さです。コンクリートを建築材料としてどのように捉えるか、そしてそれによって何を表現しようとしているのか、普遍性が特徴であるからこそ、それが建築として成立するためには表現者の強い意志が必要なのだと思うのです。

<中略>

コンクリートの美しさのみを求めても建築をつくることはできない。それは美しさを求める建築家の強い理念がそこにあって初めて成り立つものなのです。

結局、どこまで物事を突き詰められるかは、その人の素養によるところが大きいと思う。動機が弱ければ情熱は長続きしないし、知識がなければ興味のもちようもないからだ。

(フォートワースのコンペにおいて)
まず、実施設計に入るにあたって設計チームを編成しなければなりません。実施計画は勿論、構造計画、設備計画、照明計画、展示計画に至るまで、分業化し得るありとあらゆる計画分野ごとに、担当チームを編成して連合していかねばならない、そのために、それぞれの分野で評判のよい構造事務所や設備事務所などから、彼らの仕事の内容や実力を知るためのドキュメントを送ってもらいます。これはこちらから頼まなくても、噂を聞きつけて先方からどんどん送ってきます。書類選考でいくつかのチームを選んだあと、アメリカ各地を選考のためのインタビューの回らなければなりません。

日本なら、それまでの経験上、お互いにその力を知悉している構造設計家なり設備技術者と、信用によるチーム編成をするので、一回ずつの面接など実施しないのが普通ですが、アメリカではそうはいかない。この準備が事業の成否を決定するものとして、非常に重要視されているのです。

<中略>

先日も施工会社がコンクリートの打設に失敗するという自体が起こりました。<中略> 結局、取り壊して打設しなおすことになりましたが、その責任を誰がとるのか、つまり工事費用を誰が負担するかでずいぶんもめて、そのために少なからぬ時間と労力が費やされました。けれども、こんな程度のことで疲れてはいられない。他国で仕事をしていこうと思うと、その国の生活習慣、精神文化とまともに付き合っていかねばなりませんから、日本での仕事とはわけが違う、そうしたプレッシャーに潰されないようにするためには、建築以前に、まず社会を身体で理解していかねばなりません。敗退もつらいものですが、勝ったら勝ったで、また別の次元での闘いが待っているのです。やはり建築は厳しい。

今の時点では先行きも決して明るいとはいえないこの世界に参画していこうとするのなら、皆さんもそれ相応の覚悟をしておいた方がいいでしょう。

『社会を身体で理解していかねばなりません』というのは同感です。こればかりは、自分で経験を重ねて身に付けないと、誰も教えてくれない。

建築のデザインとはそこで使う材料をはじめ、素材、工法、技術といったさまざまな要素を、個別の状況に応じて一回一回組み立て直す過程における意志決定、一つ一つの積み重ねにほかなりません。建築設計の本質とは決定することにあるといっても過言ではないのです。

しかし、こうした何かを決めるということが、実にむずかしいのです。そこには膨大なエネルギーが費やされます。何もないところに新たな関係性を構築していかなくてはならず、しかもより価値あるものを築いていかねばならないのですから、それも当然かもしれません。

これは建築設計に限らず、どんな仕事についたとしてもいえることでしょう。その意志決定の迅速さや的確さによって、その人間の仕事における評価が決まります。そのとき重要になってくるのが、情報です。できるだけたくさんの情報を集め、そこから前へ進むための手がかりを見つけなければなりません。だからこそ、情報技術が社会に革命を起こすと考えられ、IT革命などという言葉が生まれるのです。

そこで重要なことは何かといえば、誰にも等しく手に入る情報を、自分なりに正しく選び取って構築してゆくのは人間の総合的な判断力にかかっているということにほかなりません。しかし私は、人間の想像力は、数量化されて平均化された情報の山から、ただ一つの決定的な選択ができるほどにすぐれたものではないと考えています。

<中略> 

材料にしても構法にしても、部分の寸法一つとってみても、自らの身体で確かめ、血肉化された知識がなければ、確信をもって決定することは決してできないのです。

これは人間の生き方、すべてに共通していえること。

結局、五万、十万と、新しい情報を手に入れたところで、どれが正しく、どれが適切なのか、取捨選択する能力がなければ、情報に振り回されるだけで、何の役にも立たない。

たとえば、私たちはスーパーに行けば、新鮮な野菜でも、レトルトパックでも、何でも買うことができるが、中には多量に摂取しない方がいい食品もたくさんある。でも、それを選択するのは、私たち自身の知識であり、栄養学も、化学も、何も知らなければ、見た目や旨みにつられて、有害な食品でもどんどん摂取してしまうだろう。

結局、情報は情報以上の何ものでもなく、自身の素養と一体になって、初めて有用な知識となる。

あれこれ知っていても、実人生に活かすことができなければ、それは知らないのと同じなのだ。

*

安藤忠雄氏の著書『連戦連敗』は、こうした学生へのエールと訓告で章を終えている。

建築だけでなく、あらゆる分野に通じる哲学だと思うので、興味のある方はぜひ手にとってみて下さい。

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